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2011/10/31

(ホン)ヤクシャ

村上春樹、柴田元幸:『翻訳夜話』。

こう言うとおこがましいけれど、自分の翻訳に対する感覚は村上氏に近いの かもしれない (技術は置いといて)。普通のことが普通に書かれていて、 普通でないことは出てこなくて、さらりと読めてしまった。 とても楽しそうに翻訳を語っているのはいいなあ。

翻訳者は、作品を外から眺める鑑賞者の立場ではなく、 むしろ作者と対象との関係の間に入っていって、作者の目で対象を眺め、 作者の創作プロセスを追体験しようとするものだ、というような話が出てきて、 まったくそうだなあと思うと同時に、役者も良く似ていると感じた。 (本書では音楽の演奏者になぞらえていたけど)。 役者の場合は、登場人物と状況との関係の間に入っていって、 登場人物の目で状況を眺めるのだけれど、 そうすると外から見ていたのではわからないことが見える(ような気がする)ことがある。 これについては稿を改めて書くかもしれない。

興味深かったのは、カーヴァーとオースターの短篇の、 村上氏と柴田氏による競訳。といっても興味を引かれたのは、 どっちの訳がどうという個別の話じゃなくてもうちょっとメタな話で、 翻訳作品の読み比べは、クラシックの一つの曲の演奏者による違いを聞き比べるのともよく似ているなあということ。 個々の具体的な違いってのは案外すんごく細かくて、それほど深く関心を持ってない人にとっては まったく些細な、どうでもいいような違いだったりするんだろうな、と思うけれど 細かく見て行くといくらでも考えを広げられて、でも最終的には翻訳者/演奏者の感性に 帰着しちゃう、ってあたりとか。

でも、それにも増して一番印象に残ったこと。両氏が競訳したカーヴァーとオースターの短篇の 原作が巻末に収録されているんだけど、ああ、やっぱり原文が一番いいや、と思ってしまった。

原文至上主義ではないし、訳をけなすつもりもないし、翻訳という行為が無意味だと 言うつもりもないけれど、この短篇について、翻訳を読んだ時に感じなかった、 ぐいっと引き込まれる力を、原文から受けたのは確か。 訳と見比べてどこが違うってわけじゃないんだけれど、強いて言うならやっぱりリズムかなあ。

まあそれはもしかすると、母国語でない英語を読む際にはモードが違うから そう感じるだけで、両方ともネイティブレベルな人が比較したら違う印象を受けるかもしれない。 これはもう、客観的な判断のしようが無いのだけれど。

★ ★ ★

今度朗読する詩でも、原文は日本語の定型詩で、その英訳があるんだけれど、 原文のリズムとそれによって作られるストーリーが 翻訳で失われるのは、それはもう仕方ない。 使う英訳テキストは、リズムについてはかなり自由で、意味中心に訳してある。

例えば、原文にはこんな一節がある。

(マエダ・カネ『二十五尺に二十尺』より引用)

己が一人にあらざれば
沈む心をふりたてて
泥によごれし板切れを
あつめてはまづ腰下ろす

ここは綺麗に7+5だけど、最初の3行では7の中が3+4なのに、最後の行だけ5+2になってる ([7+5 7+5 7+5 5+7]、と読むこともできる。) ストーリー的に、ここでよっこらしょと気持ちに一区切りつけて、 次の節へのつなげているわけですな。 文法的には「あつめてまづは」でも通るけど、これだと4+3になってあまり差が無くなり、 よっこらしょ感が減る。

んで、こういうのを英語に移し替えられるかというと、そりゃまあ単語やフレーズを うまく選択してシラブル数を合わせてやれば出来なくはないだろうけれど、 その制約のもとで意味も離れないようにするのは相当難しいだろう。

こう考えてくと翻訳なんて無理じゃんって話になりそうなんだけど、 ここでもうひとひねりある。

こうやってリハーサルで「原文はこうで…」って話をすれば、 「じゃあ英訳を読むときにその呼吸をどうにかして活かしてみよう」という話になるのだ。 翻訳という一段目の変換では移しきれない情報を、演じるという二段目の変換で 掬い取れる可能性がある、というのは面白い。

作品を、完全無欠で他人が手を加えることなど畏れ多いもの、とする向きもあるだろうけど、 それを言ったら翻訳なんて成り立たなくなるし、演奏や演技というのもまた不可能になるだろう。 演奏や演技も、「上手くやってやろう」とか「自分の色を出そう」とするのと却って 上手くいかなくて、結局は自分を媒体としていかに元の作品を素直に流すかって ところに行くような気がする。翻訳もまた、そういう表現の一つの形態なんだろう。

Tags: 翻訳, 芝居,

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