2011/12/21
質問力を育てる
『質問の成長』で書いたように、知的成長と質問の程度はリンクしているように思える。質問の「良さ」をどのように定義するかは難しいが、質問された方が良い意味で唸ってしまう質問、というのは確かにある。
単に質問が成長の現れというだけでなく、良い質問の仕方を教えることはより知的に豊かな生活をもたらすことになるだろう。むしろ、知りたいという欲求を具体化したものが質問なのだから、質問の技能は好奇心という根源的な欲求 (Cf. 『行動の源』) を満たすための必須スキルとさえ言える。
学校で、質問の仕方というのをもっと教えれば良いのに、と思う。今はどうなっているんだろう。
たとえば、文芸作品を読むというのは、質問力鍛錬のために最適な課題だと思うのだ。役者として脚本に向かい合う時の基本的で有効なテクニックは "why?" である。なぜこの登場人物はここでこういう行動を取るのか。このシーンでこの出来事が起きるのはなぜか。なぜ作者はこのタイトルをつけたのか。ここにこのシーンがある意味は何か。まずwhyと問うてみよ、と脚本分析のクラスでは教わる (Cf. 『登場人物の気持ちを述べよ』)。そもそも教わらなくても、物語を楽しみだした頃の子供は盛んに「どうしてこの人はこうしたの?」という質問をしまくるのだから、それを徐々に体系的に育ててゆけば良いだけなのだが。
USに来た頃、職場で知り合って親しくなった友人がいるのだけれど、そいつの良いところというか私が一番気に入ったところは、何を話していても---仕事上の話でも映画の感想でもなんとはない雑談でも---ちょっとでも疑問があると "why?" と口を挟んでくるところだった。ともすれば曖昧に流すことに抵抗が無かった自分にとってはそれが新鮮だった。何となくそう思っていたことでも、"why?" と一度立ち止まってみると、気づかなかった前提や思い込みが見える。その前提を外すと、新しい発想が出てくる。
簡単なことなのだ。見えている景色の中にぼやけたところ、霞がかかったところが見つかったら、ちょっと立ち止まってwhyって言うだけでいい。まずはひっかかりに自分で気がつけること。whyが反射的に出るようになったら、対話をすることで何が見えていないのかを明確にしてゆく。それを続けていれば、自分の中で明確化できるようになって、より具体的な問いが出てくるようになる。
ところが国語の授業では生徒は専ら質問される側で、答えることだけを求められているかのようだ。もしかすると理想的には問いを自ら考えさせたいのだけれどリソースが足りなくてそこまで行けないだけかもしれないが。質問の良し悪しってのは答えの良し悪しよりも評価しにくいからなあ。でもそのせいで、国語の試験というのが出題者の意図の読み合い合戦になってしまっているのは残念なことだ。
質問者の意図を読んで答えを出すというスキルはそれはそれで実生活で役に立つ場面は多くて、実際、誰かの下で働く立場なら大部分の仕事は与えられた問いに何らかの形で答える(行動することを含む)ってことになるだろう。それも重要な仕事だ。けれども、全ての起源にあるのは問いだ。起業家や研究者、あるいは広く「今までに無かったものをつくるひと」にとって、成功はひとえに「どれだけ良い質問を見つけ出すか」にかかっている。Paul Grahamも言ってるしね。
世界を面白くする問いを見つけ出すんだ。素晴らしい仕事をした人は、ぼくらと違った世界を見ていたわけじゃない。ただこの世界の中の、ほんのちょっとした、でも不思議なことがらに気づいただけなんだ。
Tags: 生活, 教育, 芝居, PaulGraham
T.Watanabe (2011/12/22 15:12:07):
shiro (2011/12/22 16:00:01):