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2014/05/19

空気話、さらに続く

わーい、めいろまさんに言及された。

日本人は空気ばかり読んでいるからグローバルなサービスを産み出せない理由

(ちなみに私も海外在住・海外子育て組なんで、めいろまさんの二分法にはちと不満が。)

しかしあれだな、『空気』のエントリの論旨がいまいち明快にならなかったのは、「空気を読む」という言葉をちょっと軽率に使いすぎたせいかもしれぬ。

文字通りとればこれは

  • 1. 相手や、その場で前提とされている文脈を推測あるいは理解すること

なんだけど、日本語での「空気を読む」は

  • 2. 全員に共有される単一の文脈を理解し、それに合わせること

という意味で使われることが多い。後者の語法自体が、ひとつの暗黙の文脈を参照しているのが、自己言及的でおもしろい。「空気を読む」が後者のような意味になるのは、

  • 空気というのはひとつしかないものである
  • そのひとつしかない空気に合わせることが正しいことである

という暗黙の文脈を参照しているからだ。この前提のもとでは、1と2は同じだからね。

あの課題を見て「日本特有の空気読み」と受け取った人は、これらの暗黙の文脈=空気を察したわけだ。(逆に、あの課題をみて普通の非言語コミュニケーション入門じゃん、と思った人は、この文脈とは独立してあの課題を読んだというわけだ。)

その事自体は別におかしくはない。実際、日本社会にそういう文脈はあるし。 ただ、アレを見て「空気読みの訓練なんて日本的!」と思った人のうちどのくらいが、 このロジックに自覚的であったかどうか、は気になる。 無自覚にそう解釈したなら、それは結局、日本にいて空気に無自覚に縛られてるのと大差ない。

空気を察することと、それに縛られること、を分離して考えれば、めいろまさんが挙げている日本の問題は後者に由来することがわかるだろう。両者を分離するという観点を持たずに、縛られてしまっている人に対して、その縛りを解くためにとりあえず「空気を読むな!」と言っとくのはありだと思うけれど、それによって「空気を察すること」という前段までも捨ててしまうのは、ちとまずいと思う。

なお、「アメリカやヨーロッパでは小学生にあんなこと教えない」というのはその通り。 ただ、異なる文脈に日常的に触れる機会がある社会ではいちいち教えなくても 「文脈は人それぞれ」ということがわかり、縛られることが少ないから、 必要性が低いだろうと考えられる。均質性が高い社会で、空気から独立するためにこそ、 ああいう課題がより重要だとは言えるだろう。

あの課題を「素直に」(日本的な空気を読まずに)読めば、求められているのは 非言語メッセージから相手の内部モデルを考えるという課題の入り口だということがわかる。 これは、Paul Grahamが「共感する力」と言ったことの入り口でもある。 それがなぜ重要かはPaulの言葉を借りておこう。

ハッカーと画家 ---Hackers and Painters---

絵画と同様、ソフトウェアも多くは人間が見て、使うものだ。 だからハッカーも、画家と同じように、ほんとうにすごい仕事を為すには、 共感する力が必要だ。 ユーザの視点からものを見られるようにならなくちゃいけない。

私は子供の頃、いつも、人の身になってものを考えなさいと教えられた。 実際にはそう言われる時はいつでも、自分のしたいことじゃなくて 他人の望むことをしなさい、という意味だった。 だから共感なんてつまらないものだと思って、私はそれを磨こうとはしなかった。

だが、なんてこった。私は間違っていたんだ。 他人の身になってものを見るというのは、本当は成功する秘密だったんだ。 それは自己犠牲を意味するとは限らない。他の人のものの見方を理解することは、 あなたがその人の利益のために行動しなくちゃならないということには 関係ないんだ。特定の状況では、例えば戦争をしている時は、 まったく逆の行動をしたいと思うだろう。

[...]

共感能力は、おそらく良いハッカーと偉大なハッカーの、 たった一つの最も重要な違いだろう。 ハッカーの中には非常に賢いが、共感するということにかけては 全く自己中心主義の人々がいる。 たぶんそういう人が偉大なソフトウェアをデザインするのは難しいだろう。 ユーザの視点でものを観ることができないからだ。

Tags: 文化, 生活

Past comment(s)

IG (2014/05/20 16:55:11):

> Paul Grahamが「共感する力」と言ったこと

確か、宮崎駿監督も似たようなことを言っていましたね。 他人と共有できるものがより多くなければ、独創性など生まれない、といった言葉だったと思いますが。 他人が共有することのできない「独創性」など無意味、 という趣旨だと思います。

yamasushi (2014/12/03 09:36:56):

(ここんところ日本語の文章(とくに癖のあるもの)を読むのが苦痛なので(かといって英語が読めるわけではない),この話題についてはこのブログの文章しか読んでませんが)空気について簡単な定義を思いついたのでご提案。「コミットメント(確約)を伴わない行動」を空気ということにすると,空気にまつわることはスッキリと説明できるのではないかと思います。言語と関係づけて論ずるので話が大きくなるのです。わたしのような性格では,観察された行動から全てを判断するので,空気は存在しません。あらゆる行動は確約を伴います。つまり決まったことを急に変えると混乱します。そして,わたしの行動自身も確約を伴います。(もしくはスクリーニング)。であるので,わたしの行動を観測した他者は「自己中心的」「KY」と感じるわけです。火山噴火が予測できないように,わたしの行動も予測できないからです。(わたし自身がわたしの行動を予測できないこともあります。予測できないことに恐怖を覚えた時期もありました。) このように,自然災害とおなじようにコミニケーションを捉えると,「空気読み」の話はシンプルです。「空気」とは発言者の行動に予測性をあたえるために必要なものであるわけです。これをふまえると,「空気」とは「確約をあたえない行動であるが,行動者の予測可能性を観測者に与える行動のセット」であり,そのセットのカタログがアメリカと日本で異なるということではないかと思います。

yamasushi (2014/12/03 09:48:53):

本文では,「ユーザー視線」という点で相手の立場を理解するという「文脈」で「空気を読む」ということですが,わたしがユーザー視点でソフトウェアを作ろうとすると,わたし自身がユーザーと同じ経験や知識が必要であると考えてしまいます。一例をあげますと,医療関係のDBの仕事をするたびに,その分野の本を買い集めます。鉄道関係の仕事になると鉄道の技術書をあつめます。(実話)程度問題で誰でもやっているとは思いますが,私の場合はそれにかける金額が大きすぎるようです。(ブログの趣旨に沿っているのかどうかはよくわかりませんが,わたしにとっての「共感」とはそういうことです。

shiro (2014/12/03 22:32:25):

空気の説明はだいたい同意です。ただ、普通の人(というのは、例えば脚本分析をする場合などに前提とすること、という程度の意味ですが)、言葉でさえも多くの場合にコミットメントは伴わないです。

もちろん言葉は非言語的行動よりは限定的ですが。脚本分析する時は、基本的に「本当に言いたいことと台詞で言われていることは乖離している」として「本当に言いたいこと」をストーリー構造や登場人物の設定、ト書きなどから推測してゆくので。非言語的行動に台詞自体よりも多くの意味が載っているとするのが大前提です。

yamasushi (2014/12/04 00:49:25):

アメリカの事情は良く知らないですが,日本のテレビドラマでは「役者を見たら筋がわかる」のが大前提であるように見えます。脚本以前のところに前提があるような。「脚本が役者に従属する」という過程を描いた「ラヂオの時間」という映画がありますが,演劇でコミュニケーションを説明する場合,読み手の文脈に依存した受け取り方がなされるかと思います。日本の文脈しか知りませんが,「本当に言いたいこと」というのは「客が見たいもの」にすぎず,それは「心地よいものであるべき」で重要なのは「誰がそこにいるか」だけではないかと。絶望的な見解ですが,演者と観客の間には埋めがたい溝があるように思います。演者が考えている「観客」というのは一種のファンタジーではないかと。(これは上級者が好んで話題にする「初心者」と同型です。

shiro (2014/12/04 02:36:09):

まあ、他人の心の中は本当のところなんてわかりませんし、作り手が考えもしなかった受け取り方をされて驚くことも多いですが、一方で大体のターゲット層が受け取るであろう「当たり」っていうのもある程度あるのは事実です。それは偶然や幻想と言いきってしまうにはコンシステントすぎるので。

もちろんターゲット層をどこに置くかでどこまで文脈に頼れるかというのは変わって来ます。複雑な文脈を読めない観客に受けようとするならそういう作りにするしかないです。

表現作品には「客が求めるものを作る商品」から「自分がより良いと思うものを作る芸術」までのスペクトラムがあって、どっちに割りきれるものでもないと思うんですね。仕事としてやってる人は後者オンリーではだめとわかってるはずですが、しかし前者オンリーにもなりたくないと思っている人が多いんじゃないかなあ。ある表現に触れた時に、自分の世界の外側からやってくる何かに圧倒される体験、というのは、表現を志した人にかなり共通する原体験であるように思うし、そういう表現というのは「客の期待するもの」を届けるだけでは作れないので。少なくとも「客が見たくないけど見るべきであると信じるもの」を作り続けている表現者はたくさんいますね。

ちなみに「ラヂオの時間」は元は舞台作品です。舞台だとそこそこ伝わってるかどうかについての手がかりが得られるんで、共有される文脈を信じやすくなりますね。三谷作品は舞台の方がずっと面白いと私は思います。

yamasushi (2014/12/04 10:56:33):

ちょっとうまく表現できないですが,「表現者と解釈者の関係」と「対人コミュニケーション」とは微妙に違うような印象です。表現者が対人コミュニケーションについてよく理解しているということはわかるのですが・・・・ 読んだばかりでまだ未消化の本なのでアレなんですけれど,「リスクに背を向ける日本人」(山岸俊男,メアリー・ブリントン)で山岸氏が実験成果とともに指摘するところでは,空気というのは「均衡」ということです。一連shiroさんのの記事と私自身の経験から「空気は観測可能なある種の行動群」という把握をして,そう書いたのですが,むしろ戦略空間の状態のことを指していると理解したほうがいいのかも。山岸氏の「周囲の目がない状況では日本人よりアメリカ人のほうが利他的」という実験結果はポール・グラハム氏の「共感」に通ずるところがあるように思いました。(山岸氏の主張の要旨はここにあるようです: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%86%E5%9B%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9

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