2011/09/09
初日開けた
Kumu Kahua Theatreの "Cane Fields Burning"、初日が無事終了。10/9まで。明るい話ではないので、来週以降の入りがどうなるか…
明日と明後日は"Mai Poina" Tourとのダブルヘッダになる。早く寝とこう。
Tag: 芝居
2011/09/08
ピアノレッスン13回目
"Cane Fields Burning"のリハーサルが佳境に入ってるんで今週はなかなか辛かった。 土日はピアノに触れず。他の日も基礎練習+ゆっくり2回さらうくらいで精一杯。 曲は引き続きRavelのSonatine。
- softなところは良い。メロディも良く出ている。
- フォルテの部分、音量は既に十分だけど、速くなったらそこまで強く弾けないはず。 音量ではなく、強弱の変化とタッチで表現する。変化がポイント。
Tag: Piano
2011/09/04
目的の目的
前に途中まで書いてお蔵入りになってたんだけど、 先のエントリ に関連しそうなので完成させてみる。
★ ★ ★
何かに取り組む時は目的を持て、とは良く言われるけど、 目的を持つことの本当の効用についてはあまり語られていないような気がする。 (ここでの「目的」は"objective"のつもり。わりと明確で具体的な、 実現すべきターゲットのこと。「目標」と言い換えても良い。)
目的を定めると、今足りないものは何かを明確に出来て、目的に至るまでの戦略を組み立てられる、とか、具体的な目的に段々近づいて行ったりクリアしてゆくことで、自分の進歩が見えてモチベーションの向上になるとか、そういうのは確かに効用なんだけど。
一番効果があること、あるいは一番おもしろいことは、 目的を定め、万全の準備をして臨んだ本番の勝負どころで、 予想もしてなかった事態に出会うことだ。
目的なんぞ定めずに呑気に過ごしていても予想外の事態には出会えるけど、 その予想外はあたりまえの予想外だ。最初から大して考えてないんだから 考えてないことが出てきたってべつに不思議じゃない。
考えて組み立てて、がっつり準備をして、もう怖いものはない、 というところで出会う「考えもしなかった」出来事は、 自分が見ることが出来る世界の地平線の向こうからやってくるものだ。 そこで一気に世界が広がる。
このことを最初に読んだのは確か篠崎光雅の演技術の本で、 そこではこんな感じで述べられていたと思う。人を笑わせる、という課題。 ネタを一生懸命考えてきて、それをぶつけろ。だが大事なのはそこで 笑いが取れるかどうかではなく、それに対する観客の反応に、 自分がどう感じたか、次の瞬間自分がどう反応できるか、そこなんだと。
演技の世界ではこのテーマは繰り返し出てくる。 マイズナーテクニックにおける"emotional preparation"も似たコンセプトだ。 何らかの感情でいっぱいの状態で、シーンに入る。 どんな感情かはあまり重要ではなく、 またその感情はシーンの最初数秒だけに必要なもので、後は捨ててしまっても良い。 シーンの中で起こるであろう感情と無関係でも良い。愁嘆場となるシーンに、 浮かれて入ってくる、というのも十分あり得る。 重要なのは、その感情に相手が反応し、それに自分が反応すること。 相手がどんな反応をするかはその時にしかわからないし、自分がそれをどう感じるかも その時になってみないとわからない。準備しておくことはできない。 それで良いのだ。準備は、即時的なリアクションの連鎖反応を引き起こすための 最初の一撃であって、臨界に達したらもう不要になるものだ。
これらはリアルタイムでの反応についてだけれど、別のスケールでも類似の構造が 見られる。Gaucheのライブラリにしても、何か別の目的を達成するために 書いているうちに思わぬ問題に蹴つまづいて、それを解決する過程でできた、 という副産物みたいなものがたくさんある。 あるいは、将来翻訳書を出版することになるなんて昔は考えていなかったけど、 Paul Grahamのエッセイをただおもしろかったんでweb上で訳してたら 何か本になって、そしたら別の翻訳の話も来るようになったりとか。
Paul Grahamといえば、「スタートアップにとって最初のアイディアが何か ということはさして重要ではない」と繰り返し話している。どうせ変わることになる のだからと。ただ、何でもいいんだけれど、何かを決めて、それを実現することに 全力で取り組むことがポイントだ。そこで壁にぶちあたった時に、本当に 取り組むべき問題が始めて見えてくる、という仕掛けだ。
★ ★ ★
これが『師の役割』と どう関係あるかというと、師について学ぶ時にも似たようなことが起きるのだ。
「こういうことを学びたい」という具体的な目的を持って、 そのための準備をばっちりして、教わりにゆく。 でも、その万全の準備を師にぶつけてみたら、 全く考えもしなかった方向から一撃を喰らって、そこではたと目が覚め、 今まで見えてなかったものが見えるようになる。 これが、教わることの醍醐味だ。
もちろん、特定の師がいなくてもそういうことは起きるんだけど、 ちゃんとこちらの準備を受け止めてくれる人が相手になっていてくれると、 毎回そういうことが起きるので大変手っ取り早い。
ここで、「自分はこれを学ぶために来ているので、 (師の指示による)そんなことはやりません」とか、 「せっかくこのために準備してきたのに、全然関係の無い話になった」 とか言ってしまうと、最大の学びの機会を失うことになる。
これは、分かってない教育者が無意味な練習をやらせることを肯定するものではない。 ただ、「分かってない教育者による無意味な練習」と 「分かっている教育者による意味のある練習」との区別って、 生徒本人にはつけられないのが困りものなんだが。
2011/09/04
師の役割
最近の内田樹さんのブログは、 とみに「ユルい」エントリが増えてるように思う。あれはわざと 隙だらけのところを見せてツッコミを誘っているに違いない。
「学ぶ(ことができる)力」に必要なのは、この三つです。繰り返します。
第一に、「自分は学ばなければならない」という己の無知についての痛切な自覚があること。
第二に、「あ、この人が私の師だ」と直感できること。
第三に、その「師」を教える気にさせるひろびろとした開放性。
その隙に小飼弾さんが誘い出されていた。
自分で、自分を教えたのである。
学びの根本は、そこにある、過去も現在も未来も。
人から学べることは確かにある。自分だけで考えていては一生分からないことが、一言交わすだけでわかってしまうこともある。誰からも何も学ばなかった人などこの世に存在しないだろう。
しかし、人からしか学ばなかった人などいないというのも、また事実である。
無垢さというのは、ありていに言えば師の色に染まりやすいということではないのか?
開放性というのは、「師の教えることは」なんて条件抜きの「なんでも吸収します」なのではないか?
「師から学ぼう」というスローガンは、文明人の最悪の生活習慣病ではないのか?
うーん、今回は、弾さんが相手のいないところに打ちかかってすっころんでる感じだなあ。
確かDavid Morrellの『オレンジは苦悩、ブルーは狂気』だったと思うけど、 こんなエピソードが出てくる。
主人公の回想。子供の頃、父親と森にキノコ取りに行った。別れてしばらく 探したけど全然見つからない。父親がやってきて調子はどうだと聞く。 見れば父親は既にかご一杯だ。「父さんはたまたまたくさん生えてるところを 見つけたんだ」と憎まれ口を叩くと、父親は「何言ってるんだ、いっぱい生えてるじゃないか」と 主人公の足元を杖で示す。主人公が目を凝らすと、 それまで落ち葉や枯枝しか見えなかった地面に、突如としてキノコが生えているのが見える。 一度気づくと、今までさんざん探し回っていた場所のそこらじゅうに、キノコが生えているのに気づく…
師ってのはこの父親のことだろう。
- キノコは既にそこにある。世界は、学ばれることを用意して、あなたを待っている。
- 実際に目を凝らしてキノコを見たのは主人公だ。 その意味では、人は自分で自分を教えるというのは正しい。
- でも、指し示してもらわなければ、多くの人は、偶然に頼るしかなくなる。 もちろん独力で正しい方法を見出す人はいるだろうけれど、そういう人にしたって 全ての分野において一人で何でも見つけられるということは考えにくい。
内田さんの言ってる「無垢さ」っていうのは、(その専門分野に関して)師が「ここを見ろ」と言ったら、 四の五のいわずに素直に見てみろ、ってだけの話だろう。
キノコの話では「見る」だけだから簡単そうだけれど、現実には 「現在持っている自分の考えに邪魔されて見えない」ことはよくある。 それに、見るというと受動的なようだが、実際の学びでは自分の身体や心を動かして 「(今まで想像もしなかったことを)やってみる」必要があることが多い。
弾さんは自転車を例に出してるけれど、これは筋が悪い。大抵の子供は、 自転車というのは練習すれば乗れるようになるものだということを知っている。 だから、師に示してもらう必要がない。 「やれば出来るとわかっていることをやって出来るようになる」のは 単なる練習にすぎない。たとえその練習がどんなにきついものであっても、 そこには学びの最も重要な要素が欠けている。
学びの最大のステップは、それまで自分に見えていた世界の外側に踏み出すことだ。 「自分にこんなことができるなんて想像すらできなかった」というようなことを 「やってみる」ことだ。今まで崖のように見えていたその先に足を踏み出すことだ。 ガイド無しに、自由にそれが出来る人はあまり多くない (いないとは云わないが)。
そして、自分には未知の領域でガイドを頼むなら、そのガイドの言うことに対して 自分の理屈をとやかくつけるのはご法度である。 自分の理屈の通用しない世界に連れて行ってもらおうっていうのに、 何やかやと理屈をつけるのは、結局自分の世界に止まっているに過ぎないからだ。 「想定の範囲内」を動き回るのは冒険ではない。
もちろんそこでガイドがヘマなら、怪我をするのは自分である。 信頼するに足るガイドを見つけることが重要だ。 ところが、そのガイドが信頼するに足るかどうかを自分で判断することは、原理的に不可能だ。 それが判断できるなら、既に自分はそっから先の世界を知っているってことだからね。
内田さんのエントリはそのジレンマを「直感」で済ませちゃってるんで、 胡散臭く感じるかもしれないけれど、そこは定義からして、 理屈でどうこう言える問題じゃないんだよなあ。
2011/09/01
ピアノレッスン12回目
RavelのSonatine、第1楽章と第2楽章をゆっくり。第3楽章もちょびっと。
音楽之友社のペルルミュテール注釈版の楽譜を持っていったらやけに受けた。
- 「えーこれ初めて見るわ。どこの楽譜?」
- (この版、指使いが面白いんですよ)「ふーん、ここはどういう指使いなの? わあこんな指使い見たことないわ。私はこう弾いてるけれど…今度こっちも試してみるわ。」
- (指示がフランス語+日本語訳で書いてあるので)「ここは何て書いてあるの?」「こっちは?」
- 「一体どうやってこういう楽譜を見つけてくるの?」「昔はアメリカでもいい楽譜屋さんがあったんだけれどねえ、最近はだめねぇ」
注意点。テーマの動機である4度降下およびその逆転の5度上昇が重要だが、第2,3楽章で3拍目が強くなると動機が消えちゃうので、3拍目に特に気をつける。あと、第2楽章のテーマ後半(4-12小節目とか)、メロディがシンコペーションになってるんで、伴奏の1拍目にアクセントをつけない方が綺麗に出せる。
Tag: Piano

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