Island Life

2011/05/01

らむ太と透視画法とunlearning

最近はstick figureで真横視点の絵ばかり描いているらむ太。 スパイダーマンの話を書いたから本にして、と紙の束を持ってきたので綴じてやる。 マンガのように吹き出しがあるけれど、 まだ字が書けないので吹き出しの中は「……」になっている。 それを「ほんよんでー」と持ってこられても父さん読めません。 らむ太作の本についてはらむ太が読んで私が聞く、ということにした。

そのマンガの中に一枚だけ透視画法を使ってる絵があっておもしろいなと思った。 廊下をまっすぐ見ている一点透視の構図なんだけど、何か見て描いたのではないという。 でも他の絵には全く応用されてないから、実物の光景を「見たまま」描いたんじゃなくて、 似たような絵を覚えてて真似したと思われる。

前にも似たようなことを書いたけれど (「引き算の技術」)、 多分、「見たままを素直に描く」のは、ある程度技術を身につけないとだめで、 それまでは、「そう見えるからそう描く」のではなく、 「そのように描くべきであると考えているからそう描く」という段階があるのだろう。

アクティングのクラスではしばしば、 「我々は大人になる過程で感情を隠す癖を身につけるので、それをunlearnしないとならない」 というようなことが言われる。こう聞くと、子供の頃は素直に出せていたのに、 というのがimplyされているような印象も受ける。 しかし身近な例 (サンプル数1) を見るに、 子供が「感情を素直に出さなくなる」のは相当早い段階だと思う---多分、自意識が芽生えるのとほぼ同時期ではないか。 恐れや喜びといった原始的な感情よりもやや複雑な感情が生まれた時には、 既に一切フィルターをかけずに素直に感情を出すということをしなくなっていると思う。

とすれば、unlearningというのは適切ではないかもしれないな。 素直に表現できる状態が最初にあって、それにフィルタをかけることをlearnして しまい、後でそれを取り除くのではなく、 そもそも表現というのはどんな稚拙なものであっても(ナチュラルの反対としての) アーティフィシャルなもので、ナチュラルに近づくべく技術を洗練させてゆく しかないのではなかろうか。

Tags: 生活, 表現, 芝居

2011/04/29

数字が独り歩きするのは困る、という危惧はわからんでもないのだけど、 だから数字を見せない、という方向よりは、 数字を読むには、読む力が必要だってことを広く知らせる方が長い目では良いんではないか。 理想論だとは思うけど。

いろんな計測器が比較的簡単に手に入るようになって、自分で測れると、自分で測ったのだからこの数値は確かだ、と思いがちかもしれない。あるいは直接の知人が測ったから、とか。 数値そのものは確かに事実なんだけど、数値ってのは現実に起きていることの一つの影でしかないわけで、その影の実体を見極めるのは、数値の読み手に任されている。

きちんと読むにはそれぞれの分野の専門知識が必要になるから、皆がみんな読めるようになるなんて無理だし、その必要もない。ただ、「きちんと読むためには他に必要なことがある」といったメタ知識はわりと普遍的だし、それは義務教育期間くらいでも教えられるんじゃないだろうか。ごく基本的なこと、たとえば一点だけのデータっていうのはほとんど意味がないとか、測定器には誤差や限界があるとか、測定方法にも影響されるよとか、その程度でいいんだけど。

殊に、異常時になると数値に興味が集まるけれど、その数値の何がどう異常かをわかる人ってのは平常時の数値を見慣れている人だけなんだよな。普段から何らかの数値を触っている人なら共有してる、普遍的なメタ知識だと思うけど。だから自分の専門外の分野でぽんと異常値を見せられたら自分の判断は保留して「その分野の数値を普段から触っている人に聞く」というのが一番。それができない事情がある時は「暫定的に」自分でできる範囲で解釈するしかないけど、あくまで仮の解釈。

専門家が目安として「平常時の数値はこのくらい」ってのを公表してるものについてはそれと比較はできるけど、目安は目安であって、そこから外れる理由ってのはいくらでもある。何を平常時とみなしているか、という条件もある。平常値から外れてたら「やばいかもしれない」ということまではわかるけれど、何がどうやばいかの判断は簡単ではない。

何も「素人は黙ってろ」とか言いたいわけじゃなくて、この機会に色々勉強してみるってのは良いことだし、大っぴらに議論するのも良いことだけど、どっかでその限界の「感触」も持っておくべきで、前者が出来る人は限られるにせよ、後者については一般的なリテラシーにならないかな。今すぐどうにかなるものでもないとは思うけれど、数字は隠そうと思って隠せるものでもないし。専門家の人が地道に発してくれている情報を広めてゆくのは必要として、その前提となるメタ知識、数値とその解釈は別ものだよっていう話もそれはそれで地道に広めてかなきゃならないのかもしれないなあ、と感じたりする。

★ ★ ★

昔、芝居で医者の役をやった時に医学書とか読んでみたんだけれど、症例の写真とか、異常なものだけ見てもわからんわけだ。レントゲンなんて、あんなもやもやした映像でここが異常だとマークされてたって周囲のもやもやと区別つかん。正常のと異常のと並べてあればああこっちがいかにも異常っぽいなあと思うけれどそれだってそういう「解釈」があらかじめ与えられてるからそうわかるだけで (しかも例は一番わかりやすいものをそれぞれ持ってきてるわけで)、比較対象なしにぽんと一枚見せられたら絶対わからない自信がある。

ちょこっと勉強したくらいでレントゲン一枚見て解釈ができるって思っちゃう人はいないだろう。でも数値ってのは具体的だし大小関係くらいは誰でもわかるから、つい解釈できると思っちゃう落とし穴が大きいのかもしれない。

リテラシーというか基礎教育という意味では、「わかる」「わからない」の二分法じゃなくて、「ここまではわかる。ここからはわからない。」という判断ができるようになることが重要ってことになるのかもしれない。初等教育では後者が強調されてない気がする。

2011/04/27

理解と表現

先日の「グラフ指向理解」へのakaさんのコメント:

私自身は、表現と意味のプロセス境界は曖昧な気がします。話言葉にしても書き言葉にしても自分が発した言葉(単語)から逐次フィードバックがかかり、文を作り進むなかで自分の中で意味も形成というか形式を与えることにより意味の存在が特定される感触があります。

[...]

翻訳する場合、文から文に訳すというある種の直訳ではなく、意味を経由する感触はあります。しかしその経由するところの意味とは、量子が如く不確定であり、ある言語で文にするという観測による特定が再度なされる感触があります。

私も、言語にする以前に明確な概念が頭の中にきちんと存在するって主張してるわけじゃなくて、 というか明確に輪郭が定義できるものがあるなら、その定義が広い意味での「言葉」 になってしまうわけで (自然言語に限らず、芸術表現なども含んだ具体的な表現という意味で)、 表現してフィードバックをかけながらだんだん輪郭をはっきりさせてゆくというプロセスは 深い理解とは不可分なものだと思う。 (以前、「創作の目的」で似たようなことを書いた)

外から観測できるのは表現されたものだけなので、もしかすると脳内の概念というのは 表現を作る過程での一時的な状態にすぎないのかもしれない。 でも、曖昧であるにもかかわらず実在感を伴って自分の中に感じられる「何か」というのは あるんだよなあ。

例えば脚本を読み込んですとんと「分かった」時に出来る「何か」。 それは言葉で直接表現できるものではなく、 だから形を与えるには演じてみるしかないわけだ。 言葉だけで表現が済んでしまうならわざわざ芝居にする意味はないからね。 自分の肉体を通してみて、 そこで感じたことをフィードバックすることでだんだん輪郭がはっきりしてくる。

この時、わからないでもただがむしゃらに色々演じてみているうちに 突然目の前が開けたように「分かる」こともあるんだけれど、それを期待するのは効率が悪くて、 やっぱりストーリー分析、シーン分析から個々のせりふの言葉の選び方まで 多層的な構造をとらえた「暫定的な理解」を腹に収めていろいろ準備した上で演じてみる方が はるかに速く輪郭を収束させられる。

翻訳も、入力と出力が書き言葉による表現だというだけで、プロセスはほとんど同じだと思う。 輪郭をはっきりさせる、つまり深い理解をするには出力してみることが必要で、 そのために仮訳を作ってみるというのはありだと思うし、 その厳密な直訳もそのステップとして使えるかもしれない。 でも高次の構造をすっとばしてがむしゃらに訳してみるってのはやっぱり効率が悪いし、 満足のゆくものに到達できる可能性も低くなるんではないか。 創作手段は人それぞれなので、厳密な直訳によって構造を明確にできるならそれで構わないけど。

個人的には、今、ピアノでちょうどそういう壁に当たってる感じがしてる。 高次の構造が見えてなくて、ひととおり音符が追えるようになった後 どっちに進んだらいいのかわからなくてぐるぐる回ってる感じ。 これは、直訳を作ってはみたれれどそこからどう直したらいいのかわからないっていう 状況と似てるんじゃないかなあ。 ここから自分のフィーリングだけで直してゆくのは、がむしゃらなランダムウォークになるんで 多分うまくいかない。 いっぺんレッスン受けてみるかなあ。

Tags: 表現, 芝居, 翻訳, ものつくり

2011/04/16

撮影日和

UH Academy for Digital Mediaの学生映画の撮影でKaneoheに。素晴らしい天気だった。

[image]

[image]

Tags: 芝居, 生活

2011/04/14

デジタルプラクティス招待論文

4/15発行の情報処理学会「デジタルプラクティス」Vol.2 No.2 に『Gaucheの開発戦略−小規模プロジェクトこそ国際化を考えよう−』という題で寄稿させていただいた。次のページからpdfで誰でも読めるようになっている。

http://www.ipsj.or.jp/15dp/Vol2/No2/dp0202.html

正直、並んでる他のソフトウェアに比べたら、ユーザ数からも認知もごくマイナーなGaucheが「世界へ飛び出す日本のソフトウェア特集号」に載っかっていいのかとは思うけど、せっかくなのでマイナープロジェクトならではの視点を盛り込んでみたつもり。他の記事も普通の論文ではあまり語られないような開発経緯やその経験が一人称視点で語られてて、読み応えがある。

Tags: Publication, Gauche

More entries ...