2010/10/17
ソフトウェアの肥大化
いやそのりくつはおかしい。というか話が混ざってるような気がする。
高林さんは「ソフトウェアがより広く使われてより多くの機能をサポートするならば、ソフトウェアは肥大化する」という現状についての観察から、ソフトウェアの肥大化は必ずしも悪くないとする。確かにこの命題が真なら、ソフトウェアの肥大化を抑えることは少ない機能で満足せざるを得ないということを意味するから、肥大化を否定するのはよくないだろうということになる。
でもその命題は経験的に導かれたもので、確かに「今の」ソフトウェア開発ではそうなっているけれど、ソフトウェアに内在する不可避な性質として備わっているものかどうかはまだわからないんじゃないかな。
機能PをサポートするコードC(P)を新たに足して、機能QをサポートするコードC(Q)を新たに足して、ってやってふと気づいたら、あるモジュールの切り方を変えるとC(P)もC(Q)も共通機能Xに与える指示をちょっと変えるだけで実現できて、それどころか既存のAやBをサポートするコードC(A)やC(B)も同様にX+αで実現できることがわかった、なんて場合は、機能を増やしたのに全体のコードが減る可能性もある。
いやそうは言ってもね、現場では「万能共通モジュール」+カスタマイズ、っていうのは必ずしも使い勝手が良くないんだよな、共通モジュールにバグがあると影響範囲が広がるし、共通モジュールを介さずに直接下のレイヤを叩いた方が簡単に書けて、独立してるからメンテも楽だし…なんてぼやきが聞こえてきそうだけど、それは現在そうであるって話だ。未来でも同じように開発していなくちゃならないとは限らない。
上の「共通モジュール」の話でライブラリを思い浮かべた人は多いと思うけれど、もうちょっと一般的な話で、例えばプログラミング言語の設計だって上の議論での最適なXを求める試みだ。そして実際、現在のライブラリという手法は、これからもっと複雑化するソフトウェアにおいて少々力不足かもしれない。既に、膨大なライブラリから欲しい機能を探し出すよりはその場で書いてしまった方が早い、なんてことは起きてるわけで。だから、単にライブラリを整備すれば良いとか、スーパーハイレベル言語を作ればいいとか、そういう単純な話ではない。ソフトウェア開発という行為自体がどう変わってゆくべきかって話になるんだろうと思う。
もちろん、求められる機能がはるかに増えているのに最終的なバイナリのサイズが8bit時代のまま、ということはあり得ない。機能が増えれば、それをサポートするために何かが増えている。プロセッサだって、8bit時代と今とじゃ比べ物にならないくらい内部は複雑になっている。けれどもその複雑さの大部分は、プロセッサのISAやコンパイラのレイヤで吸収されて、アプリケーションプログラマがほぼ気にしなくても良いようにはなってるよね。(もちろん、キャッシュの振る舞いとかメモリの同期とか、アプリケーションコードレベルまで下層の複雑さが顔を覗かせることはあるけれど。でも例えばメモリの同期については新しい言語ではよりはっきり定義されていたりと、徐々にそういうものが中間レイヤでうまく吸収されるようになってきてもいる)。
一般的な人間の頭の中で扱える複雑さってのはたぶん急速には増えないだろうから、人間が扱えるモデルの大きさというのには限界がある。ってことはただソフトウェアが肥大化するに任せてたら人間が扱える範囲を越えるあたりで頭打ちになって、冒頭の命題に照らせば、サポートできる機能に上限があるってことになっちゃう。それは困るから、「ソフトウェア」というのをひとつの混沌とした世界として扱うんじゃなくて整理して、個々の世界は人間の頭の中に収まる範囲にしましょう、ってのがアラン・ケイのやってることなんじゃないかなあ。
もちろん、それと、「今、ここにあるソフトウェアを、現在の顧客の要求に対してどう改良してゆくべきか」っていうのとは違う話で、冒頭のエントリ内で上げられてるJoel Spolskyはそっちの話をしているんだと思う。
Tag: Programming
2010/10/16
『食堂かたつむり』(Rinko's Restaurant)
ハワイ国際映画祭でかかっていたので観てきた。 ネット上の評判があまり芳しくないのでちょっと心配だったのだけれど、 早いうちに「お約束」を飲み込んでしまえば楽しめる映画だった。
ちょっと留保つきの言い方になっちゃうのは、 監督のやりたいことはわかるんだけど、 それに実写映画というのは適切なメディアなのかなあ、という疑問が拭えなかったから。
以下、若干ネタバレ。
「お約束」とは、この映画では生身の人間や現実の持つ「生臭さ」を一切描かない、ということ。 例えば料理のシーンでは食べ物のおいしそうな香りが感じられるのに、 長年放置された物置のカビ臭い匂いとかペットの豚の小屋の饐えた匂いなんかは 全く漂ってこないとか。登場人物がオフシーンで「汗水たらしている」感じを 徹底して排除しているとか。そのせいで時に芝居がひどくちぐはぐに見えることがあるが、 物語の要素を記号的に考えると筋が通っているから、監督の意図的な選択なのだろう。 端的なのがエルメスと鳩の処理で、記号的に考えれば物語上の必然はあるのだけれど、 それに対する主人公の芝居はばっさり省かれてる。
ある意味、連作もののマンガを読んでいるような気分。 表現としてのマンガが良い悪いというのではなく、生身の肉体が無いマンガという 媒体には記号化による構成がしやすいという性質がある。 それはそれで、そういう表現で語れること、というのはあると思うから悪いことではない。
ただ、実写映画では生身の人間が映ってるから、観る方はついつい記号の下にある 肉体を探してしまう。視線から発する、あるいは肌から立ち昇るシグナルを捜そうとしてしまう。 映像的/脚本的なシチュエーションと役者の肉体の言語に齟齬があると落ち着かない。 そのことに監督はどのくらい自覚的であったのだろう。 映像センスから中島哲也に例える評も見たけど、役者の肉体の扱いという点ではかなり違うと感じた。
とはいえ、監督のやりたかったであろう表現については高い完成度で 仕上がっていて、これはこれでありだと思う。 記号的とはいっても、よくある邦画の駄作のように登場人物が単なる駒になっているのとは違う。 役者の肉体は確かにそこにあり、だからシーンとしてはきちんと成立しているのだ。 ある側面がすぽんと欠落しているだけで。 それが悪いことなのか良いことなのか、判断に迷う。 私が見たいものはそこに無かった、とは言えるけれど、 こういうのを求めている観客もいるのだろうし。
監督の富永さんは高校の演劇部の後輩で、当時から作・演出を手がけていて、 そういえばあの頃からファンタジーと現実を巧みに交錯させていた。 あれから20年、あの頃蒔いていた種が見事な樹になったのだなあ。 今度どういう作品を見せてくれるのか、楽しみではある。
Tag: 映画
2010/10/13
Meisner Intensive 4回目
- Use your hunch. Don't analyze like "why I saw sadness? It was maybe the reflection in his eyes...." If you feel it, just react to it.
- Things often goes wrong in scenes. It's a good thing. It's an opportunity. React to it.
- The weakness of Meisner technique---if you have nothing to react, e.g. the other actors don't give you anything, then you can't do anything. Because any action you do must be triggered by something else. Here another technique, such as Method, comes handy.
- On the other hand, if you, as an actor, can give something to other actors to react, you will be remembered. Even if your role is just in one scene with five lines. If you give, it makes other actors and directors a lot easier to work, and they remember.
- The importance of doing is that it is real. It's not showing. If you're faking something, it looks faking. Maybe not on stage, but it sure does on camera.
Exercises:
- Three moments - repetition.
- Independent activity.
来週はemotional preparationもやる。ネタを考えておく。
Tag: 芝居
2010/10/11
ナイーブさ
プログラマの三大美徳のひとつ、「傲慢さ (hubris)」がピンと来ない、 どっちかというと中二病が近いんじゃないか、って話:
私は逆に中二病というのにピンと来ないのだけれど、ある種のナイーブさ、 と言い換えるならばそれは必要なものだと思う。 (Larry Wallの言うhubrisともはちょっと違うとは思うけど。) 2番目のエントリで挙げられてる「バカさ」「若気の至り」がたぶんそれで、 「ものわかりの良さ」の反対側を向いたベクトル。 「こんなこととっくに誰か考えて実装してるんじゃないか」とか、 「こんな環境ではまともに動かせるわけないから手をださないでおこう」という具合に ごちゃごちゃ考えることをせずに、ごりごりっと書いてしまうような態度。
確かPaul Grahamが、熱意に突き動かされて向こう見ずにがーっと実装して、 一晩あけたら冷静になってコードを見直す、その両方が必要だってどっかで 書いてたと思うけど、前者の態度がこのナイーブさに当たると思う。
こういう「バカさ」が歳と共に失われがちになる要因にはいくつかあるだろう。 経験を積むことで「ものわかり良く」なってしまうこと。体力の低下。 責任ある立場になってしまって立場上冒険がやりにくくなること。
残された時間が気になりはじめる、というのもあるかも。 10代20代には自分の人生の残り時間なんてほとんど気にならないけれど、 40代過ぎると「これまでやってきたペース」の外挿で「この先できること」が見えちゃうので、 無駄な時間を使いたくなくなる。ところが「バカさ」の本質は 冷静に考えれば無駄になりそうなところに労力を突っ込むことにあるわけで。
もひとつ、皮肉なことに、「実績を積むことで理想的な環境に近づく」ことが 「バカさ」を失うひとつの要因になるかもしれない。 若くて貧乏なころ、ハイエンドな環境が手に入らなくて、そういうのを横目で見ながら ローエンドで制約の多い環境で四苦ハックしてたのが、 それで実績を認められてプロモートされ、 いつの間にか機材もソフトもハイエンドな環境使い放題、になったとする。 もちろん現代の計算機工学と計算機パワーでも全く追いつかない問題というのは たくさんあるから、贅沢な環境を最大限に活かしてそういう問題に取り組むことが 期待されてるわけで、それはそれで大事なことなんだけど。 そういう先端に行っちゃうと、直接のオーディエンスっていうのは狭くなる。 すごいハックをやったとして、それを直接使ってもらって「すげー」って 言ってもらえる人が限られちゃうってこと。
フィードバックなんて関係なく技術そのものを追求してるだけで面白い、 とか、間接的なフィードバック (自分の実装したクラウドのバックエンドの ロバストな管理システムが、巡り巡って人気のwebサービスに貢献してる、 とか、自分の書いたプロダクションレンダラによってあのハリウッド映画が 作られてるんだ、とか) で満足できるっていう人ならそれでいいんだけど、 ナイーブな「若気の至り」って、結構、自分に近い階層からの フィードバックに支えられてるってとこが無いかな。 分かる人に「すげー」って言ってもらうのにプライドをくすぐられる、って感じ。
たぶん、人生に壮大なビジョンを持って邁進してる人はこんなこと気にならないんだろうけど。 以前書いた「その場その場で面白そうな方向にふらふら進んだ方が良いタイプ」の人 (cf. 日本とか海外とかいうより) の場合は、 一本道を極めるよりも、「いい歳をして」とか言われながらも次々と 新しいことに手を出す方が、楽しい人生になるかもしれない (たとえ偉大な成果を残せなくとも)。 それがはからずも、この種のナイーブさを失わない秘訣であるように思う。
Tags: Programming, Career
2010/10/05
Meisner Intensive 3回目
Three momentsとrepetitionをしばらくやった後、Independent activityへ。
Independent activityはとても面白いのだが、その面白さを 書き記すにはrepetitionは何かというところから始めねばならず、 それにはこの余白は狭すぎ、もとい、ワークショップ中は 分析を切って感じることに集中しているので言語化するのが難しい。
最後にemotional preparationについてさらっと説明あり。 来週はindependent activityにemotional preparationを乗せて行くとのこと。
共にスタニスラフスキーシステムをベースにしてても、 メソッドアクティングとマイズナーはだいぶアプローチが違うなあ。 感情と反応のメカニズムをハックする、という点では共通してるんだけど。 引き出しに両方持っておいて適宜使い分けるのがいいんだろうけど、 マイズナー的に見るとメソッドは「考えすぎ」になってリアリティから乖離する 危うさがあるって感じなのかな。エクササイズの段階では、 アプローチによって目的とするところや準備が違ってくるので、 どちらの手法のエクササイズかをはっきり意識してないとまずそうだ。
Tag: 芝居

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