Island Life

2010/09/26

フローと社会性の話、さらに続く

書きながら考えてるので、なかなか綺麗にまとまらない。以下のエントリの続きをだらだらと。

前エントリでは、プログラマがフロー状態と社会性との両立に悩むのは、 フロー状態を扱うノウハウがプログラマという職業でまだ蓄積されていないからじゃないか、という仮説にたどりついた。

けれども別の可能性もある。そもそも、フロー状態を必要とする職種では、 少なくともキャリアのピークにおいて、フロー状態から完全に抜けることの方が少ないんじゃないか、というものだ。 職場を離れた日常生活にあっても、水面下の意識の大部分は依然としてフロー状態に近いモードで動いていて、表面のほんの一部分のみで辛うじて日常のインタラクションをこなす。これなら仕事に戻った時に、改めて脳内キャッシュを満たし直す必要がない。

例えば数学者は、「朝起きた時に,きょうも一日数学をやるぞと思ってるようでは,とてもものにならない。数学を考えながら,いつのまにか眠り,朝,目が覚めたときは既に数学の世界に入っていなければならない」(数学は体力だ! - 木村 達雄) のだそうである。これは、プログラマとしても大いに頷ける。

また、これもアクティングクラスで教わったこと: 「役に入る」のは極めて難しいことであるので、シーンの合間で抜いてはいけない。 撮影の待ち時間についスナックスタンドに立ち寄ってスタッフと談笑したくなるかもしれない。 たまに、日常から一瞬で役に入れる才能を持った役者もいる。 けれども自分がそういう稀有な才能の持ち主でない限りは、その真似をしてはいけない。 ベテラン俳優でさえ、撮影期間中は24時間「役に入って」いる人もいる。 そうでなければ、必要な集中状態でカメラの前に立つことが出来ないからだ、と。

もちろん、意識の大部分を「フローから抜けない」状態に保っていたら、 他人のおしゃべりに付き合って、気の利いた会話を弾ませることは難しいかもしれない。 とんちんかんな受け答えをしたり、ぼっーとしてると思われることもあるだろう。 世間から多少ずれてしまうのは仕方のないことだ。 でも、多分そんなことは悩みにならないのだ。

この手の人達は、同種の人たち同士で集まれば楽しく過ごすことができる。 お互い、意識下のフローを乱さずにインタラクションする方法を知っているからだ。 むしろ、お互いにフローを高める刺激を与え合えるかもしれない。 深く考えたくなれば会話に加わらず独りでいればいい。誰も邪魔しない。 そして興味のある話題が出たら自分の思考をダンプする。 興味を持った人だけがついてくればそれでいい。

また、必ずしも同種の人とでなくても、そんな変なところをさらりと流して 付き合ってくれる人たちというのはいるものだ。 キーワードは、"being honest is opposite of being nice" だ。 他人に合わせようとするから、niceであろうとするから、 膨大な社会的プロトコルを処理する必要に迫られて、 フローから完全に抜け出さざるを得ないのだ。 自分が素直に自分でいられる、そういう関係で付き合う限りにおいては、 フロー状態と対人関係は両立可能だ。 もちろん誰とでもそういう関係を結べるわけじゃないけれど、 友人を選んで付き合えば良いだけだ。

この、同業者および気の置けない交友関係の外に出ることを「社会性」と呼ぶなら、 確かにそれはフロー状態と排他的であるかもしれない。 でも、フロー状態を必要とする職についている人のほとんどは、 上記の関係までで社会的欲求は十分満たされてるんじゃないかって気がする。

で、結局、プログラミングでフロー状態に入って社会性が失われてゆく、と言っている人は、 どういう「社会性」について言ってるんだろう、という、最初のエントリの疑問に戻って 来ちゃったなあ。

どっぷりフローに入った後でも、自分と同じ問題をどっぷり考えてた人となら、 あるいはフローにある自分を理解してくれている人となら、話せるんではないか。 そういうところまで失われるとは感じないだろう。この意味での社会性なら、 失われない、と私は考える。

フローを抜けなければ付き合いを保てないような関係が失われる、と嘆いているなら、 あいにく私にはピンと来ない。それを指して社会性と呼ぶなら、私はこのtweetに同感だ:

http://twitter.com/yukihiro_matz/status/25636338257

しかし、ゾーンに入りすぎて社会性がなくなるなんてなんて贅沢な悩み。私だったら弊害が出るくらいゾーンに入れるなら、社会性くらい平気で売り飛ばすけどな。

Tag: Programming

2010/09/25

ではプログラミングは何が特殊なのか

昨日の議論は、「フロー状態」に入ることは必ずしも「人とインタラクションする」ということと排他ではない、というものだった。しかし実感として、「対コンピュータモード」と「対人モード」との切り替えの心理的コストは決して低くない。私もフロー状態を外的要因で切られるとかなりつらいし、時にはなかなかフローに入れなくて頭が石臼にかけられているように感じる時もある。

けれども、フローに入らなければならない職業というのはプログラミング以外にもたくさんある。作家、作曲家、演奏家、画家、デザイナー、役者、研究者。こういう人達が「友人とひとしきりおしゃべりした後だとなかなか仕事が進まない」とか、「仕事に没頭していると社交性が失われてゆく」とか言うかなって考えると…言うことはあるかもしれないけれど、それを職業自体が持つ欠点であるかのようには言わないんじゃないかな。どちらかというとそれは自己管理の甘さの告白と取られるように思う。 (但し、締切りに追われ缶詰になって健全な社会生活が営めない、というのは職種の特定のスタイルの欠点としてあり得る。それはモード切り替えの話とは別なのでここでは置いておく。)

もちろんこれらの職業にもフロー状態とそうでない状態のスイッチのコストというのはある。スティーヴン・キングは確か「原稿に穴が開いてその向こうの世界に入る」という表現を使っていて、これはまさにフロー状態だと思うのだが、なかなか穴が開かずに、白い原稿用紙を眺めつづけるスランプの恐怖についてもまた書いていた。フロー状態に入れないのは何よりも恐ろしいことだから、あらゆる手立てを考えてきちんとフロー状態に入れるようにするのだ。

いやこれらの職業と比べて、プログラミングは特にスイッチのコストが高いのだ、という議論はあるかもしれない。コンピュータに没入するのと、人間的感性が反映される芸術活動に没入するのは違う、とか。頭の中のキャッシュに、膨大な部品からなる論理構造を組み立てるのに時間がかかるのだ、とか。けれども、例えばピアニストは演奏前に膨大な音符とそれらのつながりを頭の中に収めているはずだし、役者は全ての台詞の微妙なニュアンスと、さらには脚本に出てこない登場人物の人生をそっくり頭の中に収めている。それらは感性だけでなく、案外にロジカルな構造を持っているものだ。

中には数学者が困難な未解決問題に取り組んでいる時のように、超人的な量の脳内データ構造を必要とする問題はあるだろう。だが仕事としてひとくくりにした場合に、プログラミングだけが取り立てて、他のフローを必要とする職業よりもたくさんの特殊な脳内活動を必要とするようには思えないのだ。

ひとつ違いがあるとすれば、プログラミングは身体的な活動をほとんど必要としないため、身体的な制限に縛られることが無い点だろう。演技や楽器演奏については、どんなに強大な集中力の持ち主でも体が疲れて集中を切らざるを得ない時がやってくる。けれどそれとて、作家や数学者など、やはり身体的制限を受けない職業は他にある。

もともとプログラミングにおけるフロー状態というのが言われ出したのは、プログラマの仕事環境の改善に関連してのことだったと思う。プログラミングは、例えば次々割り込んでくるタスクをてきぱきと処理する事務職員の仕事とは根本的に違うのだ、それはむしろ作家や画家のように長く中断されない時間を必要とする仕事だ、だからそのように処遇してくれ、と。

何時間もフロー状態で没頭できるなら、それは望ましい環境が整ったことを意味するわけで。それで社交性が無くなるとぼやかれても、外から見たらなんだかなあ、って感じだ。

他のフロー職種に比べて職業プログラマというのは歴史が浅く、職業で要求されるフロー状態と社会生活との折り合いをつけてゆくノウハウが蓄積されていない、ということはあるだろうか。

役者にせよ、ミュージシャンにせよ、作家にせよ、仕事としてキャリアを重ねてゆくうちに、生活と仕事をうまく両立させる方法論というのを自分なりに作ってゆくものだと思う。カメラアクティングのクラスではシーンの前に集中するテクニックというのをいくつも教わる。これをやれば確実というものは無いけれど、いろいろなテクニックをヒントに各人が自分なりの集中法を作ってゆくのも、キャリアの準備の一部だ。また、職場においてそういう集中状態を周囲のスタッフがどう扱ったら良いかという知識も共有されている。

プログラマについても、そういう一種の文化の蓄積が必要とされているのかもしれない。

Tags: Programming, Career

2010/09/24

フロー状態と社会性

ちょっと議論の切り口が混乱してるような気がした。

私がソフトウェア技術者をやめた理由

私は、プログラムを書いていると、一種のフロー状態に入ってしまう。気がつくと4時間くらい経過している、なんていうことがよくある。フロー状態というと聞こえはいいが、私にとってはあまり愉快な体験ではない。プログラミングに没頭するほど、私は、社会性を失っていく自分に気がつく。「対コンピュータモード」「対人モード」と2つのモードがあり、これらは相互に排他的なのだ。

良く「コンピュータ」と「人間」は相反するものとして扱われるけれど、ここで問題になってるのは「コンピュータ」vs「人間」ではないように思う。

フロー状態はプログラミング特有のものではなく、 極度に集中を高める作業なら何であれ起こり得るわけで。 もちろん一人でやる作業の方がフロー状態に入りやすいとは言えるけれど、それが条件ではない。 例えば複数人でやる芝居の稽古でも、フロー状態に持ってゆくのが理想的だ (人数が増えると格段に難しくなるけど、二人なら比較的簡単。 マイズナーテクニックのrepetitionなんて二人でフロー状態に入るための練習みたいなものだ)。 音楽の演奏でも複数人のフロー状態はあるだろう。スポーツでもあるように思う。 (フロー状態の概念を提唱したCsíkszentmihályiもGroup flowということを言っている)。

つまり、フロー状態に入るモードと「対人モード」とは相反するわけではない。 ならば引用元のelm200氏の中では何が相反しているのだろう。 引用元で「フロー状態」に対置されているのは「社会性」なんだけど、 では社会性って何だろうと考えると良く分からなくなった。

フロー状態ってのは閉じた環境/集団で深く集中してゆくものなので、 その逆のベクトルというのは考えられる。開かれた集団や環境において、 意識をひとつのフレームに集中させるのではなく身軽にぽんぽんと乗り換えてゆくこと。 例えばパーティでの意識状態はそういうものかもしれない。

フロー状態「だけ」を指向すると、一人であれ固定した集団であれ、 ひとつの方向を突き詰めてゆくことはできるけれど、 新しい方向と出会う機会は減ってしまうのかもしれない。

もっとも、フロー状態のカウンターバランスを取るためにパーティーアニマルに なる必要はなくて、いつもの面子でも集中を切ってバカ話したっていいし、 逆に独りでも普段行かないようなところに出かけて意識を拡散させたっていいだろう。 それを社会性と呼べるのかどうかは、ちょっとわからないけれど、 フロー状態に入ることが多いような職種では、 意識して適宜こういった拡散状態を作り出す方がバランスが取れて良い、 ということは言えるんじゃないかと思う。

(そう言えば、Y Combinatorはプログラム期間中、週一でディナーに集まるけれど、 それも、籠もってコーディングばかりしている生活のバランスを取るためでもあるって Paulが言ってたな。 cf. 20060801-visiting-ycombinator)

★ ★ ★

フロー状態云々とは別に、プログラミングに没頭していて疲れることはある。 自分の場合、それは "too much celebral activity" なんで、 カウンターバランスとして身体を使うアクティビティが欲しくなる。 ジムに行くとか、ピアノ弾くとか、芝居の稽古とか。 でもこの軸は、フロー状態かどうか、とか、対人か対物か、という軸とは別の軸だよね。

Tag: Programming

2010/09/23

制約

創作の目的に関連するような、しないような話。

うまく説明できないのだけれど、 「自由に作る」というのは、「作り手が好き勝手に作る」というのとは違うと思うんだよね。 重なる部分もあるけれど。

良いものが生まれる時って、 「そのものが本来あるべき姿に向けて成長していった結果としてそうなった」って感じがする。 もちろん、事後的に見てそう見える、っていうことで、 製作の渦中にいる時に何が本来あるべき姿か、なんてのは見えない。 作っている最中に言えることは、「作品が向かって行きたい先を邪魔しない」ってことだけじゃないかと。

この「邪魔」には、「作者のエゴ」ってのが含まれる。 最初から必要以上に「この作品はこうしてやろう」っていうのを考えすぎると、 作品が向かいたい先を示すサインを見落として、作品の可能性を刈り取っちゃうことになるんじゃないか。

舞台でもカメラでも、演技する時、相手に集中するっていうのは基本なんだけれど、 アクティングのクラスでこんなふうに教わった。 「相手に集中するというのは、もちろん相手の演技に的確に反応できるようにするためだが、 『自分から注意を逸らす』という効用もある。こう演技してやろうとか、 こんな感情を出してやろうとか、『自分』に意識が向いてしまうと、 どうしても力が入って自然な演技にならない。そういう『狙い』は、 舞台に上がる前/カメラが回る前に自分の背骨に染み込ませておくことだ。 舞台上では力を抜き、完全に自由であることで、的確なリアクションが取れるのだ。」

この「余分な力を入れない」っていうのは、演技とか演奏とか、あるいはスポーツとか、 ライブ性の強いものでは当然のことなんだけど、 時間をかけて作ってゆくものにもあてはまると思う。

現実のものつくりでは色々な外からの制約があって「思うように作れる」ことは 滅多に無いのだけれど、そういう制約って舞台上で2mジャンプできないとか 掘っている木の変なところに節があったとかそういうのと同じで、 むしろ出来るものに形を与えるガイドになっているんじゃなかろうか。 努力で乗り越えられる制約はあるけれど、全てを乗り越えられるわけじゃない。 どこで突っ張ってどこで流すか、っていう判断は、 作品がどうなりたいかという声に従うのが一番だという気がする。

Tags: ものつくり, 芝居

2010/09/21

Meisner intensive

今日から6週間、週一でMeisner techniqueのクラスに参加。 Meisner techniqueはこれまでのアクティングクラスでも エクササイズとして断片的にちょろっとやったりしてたけど、 このクラスでは徹底的にエクササイズのみやる。シーンワークは無し。

断片的なメモ。

  • Acting is to live truthfully under imaginary circumstances.
  • Being nice is opposite of being honest, being truthful.
  • Repetition - the most basic, important building block of exercises
    • Listening
    • Answering without thinking
    • Behaving truthfully
  • Trigger: Never say a line, or never make an action without triggered by something.
  • Exercises
    • Repetition
    • Story building
    • Three moments
    • Three moments, then repetition

(追記2010/09/23 04:36:55 UTC): エクササイズでは「考えずに反射的に応答する」ことが 重要なんだけれど、応答は言葉で行われる。これは非ネイティブにはきつい。 母語で喋るよりも余分に頭の回路を回さないとならないから。 ついていけるかどうか心配。けれども、英語で反射的に答える訓練にもなるかもしれない。

エクササイズでは相手役の仕草、表情、特に「眼の奥の感情の動き」 にものすごく集中するのだけれど、クラスを終えた後で街に出たら、 すれ違う人の表情や眼にどうしても注目してしまう。 あんまりじろじろ見るとヤバい人だと思われるのでなるべく見ないように するんだけど、景色の中で人の眼のところだけ明るくなって強調されてるような 感覚を味わった。これをマイズナー効果と呼ぼう (違)。

ちなみに一日経った現在ではこの効果は消滅した。エクササイズを続けてると 常にあんなふうに見えるようになるものだろうか。

Tag: 芝居

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