Island Life

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2010/09/13

手段としてのプロ

本気』のエントリに関するツイート:

  • knsmr: shiroさんの、この分類は鋭いと思う。「分かる」とは「分ける」こと。議論はちゃんとあれとこれを分けないとね、という → Island Life - 本気
  • nalsh: でも、本当に感動する作品の、本当に感動する部分ってのは、プロ意識で作られた物じゃなくて、もっとアマチュアな「本気」の産物だったするんじゃないかなぁ

自分もそう思う。

以前書いたように、プロとアマを分かつのは単独の作品の質ではない。 長期的に見た場合に「出来が悪い時でも一定の水準を越えていること」がプロの条件だ。 だって金銭的報酬を受け取っているということは顧客がいるわけで、 その顧客は払ったものに対するアウトプットが出てくることを あてに出来るから払うのである (cf. 20090605-talent-and-money, 20090529-reliability-and-availability)。

もちろん、分野によってプロに要求される「一定の水準」には大きな差がある。 プロスポーツなどのように、要求される水準が極めて高い頂点の世界では、 その水準を満たせる人間はプロとして専業でやっている者のみ、ということになるだろう。

けれどもそうでない分野もある。 通常のプロの水準を大きく飛び抜ける作品をアマチュアが生み出すこともある。 特にそういうことが起きやすいのは、多様性が鍵になる分野だ。 演技の経験が無くても、ある映画の主役のキャラクタにそれまでのリアルの人生が うまく重なり、素晴らしい輝きを見せて高い評価を得る人はいるだろう。 人間はだれでも一冊は小説が書ける、と言った人もいたような。 誰もが全ての人生の可能性を経験できない以上、 「その需要にぴたっとはまる人はこの人だけ」 というケースはいつでもあり得る。 そのことと、その人が継続して役者や小説家を仕事としてゆけるかどうかということは 別の話なのだ。

ただ、ある人が、一発屋ではなく継続してその分野でより良い作品を 産み出してゆきたいと思うなら、理想的な状態は作品を創ることだけを 24時間365日続けられる環境にいることだろう。生活のための仕事に 一日の半分を取られるのではなく。 プロになるという選択は、「最高の作品をつくりたい」という目的の ための手段であり得る、ということだ。

(三谷幸喜の『ラヂオの時間』にこのへんの想いをぶつけた台詞があったような気がする。 放送作家が、普段はクライアントにへつらって不本意な作品ばかり出してるけど、 いつか満足がいく作品を出せる機会があることを信じて歯を食いしばってやってるんだ、 みたいな台詞。)

したがって、「いつでも確実に要求水準をクリアする」というプロ意識と、 「持てる力の全てを注ぎ込んで最高のものをつくる」という一種のアマ意識は 同居し得るものだと思う。仕事で受けた場合は前者を優先せざるを得ない だろうけれど (だから、余暇に自分のつくりたいものをつくるという ニコ動でいう「プロの犯行」が出てくるわけだ)。

プロを手段として選択した人は、 いつか、自分のつくりたいものに全てを賭けられる機会にめぐり逢えると思って やっているんだと思う。 そういう「個人の本気」が、新しい地平を開いてゆくのだろう。

けれども、業界そのものを成り立たせている「しくみ」の部分は 「頼まれた水準をきちんとクリアする」という 割り切ったプロ意識で支えられているわけで。それが崩れると 新しい地平にジャンプしようとしても土台が無くなっちゃう。 どっちが本質、というものではなく、両方見ながらやってかなくちゃね、ってことだな。

Tags: ものつくり, Career

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