2015/10/30
自分ではわからないから、わかる人に助けてもらう
ということを 「腐った翻訳」についてで書いたんだけど、 頭にあったのは先日のアクティングクラスでの一幕である。
課題のシーンをやっていったのだけど、 自分でシーン分析していてどうもうまくつながらないところがあった。 で、シーンを演じるセッション中に先生とのやりとりで「あ!そうだったのか!そりゃそうだ!」という 瞬間があって綺麗につながったんだけど、 クラスの後で先生に質問した。
- 私: 今日の私のシーンのあのせりふ、自分一人で分析してた時はどうしてもしっくりこなくて、 先生のあのヒントではっきり分かったんですが、 これがクラスではなく、実際の現場だったらどうしたら良いでしょう? 自力で出来るだけ準備するとして、 でもこの解釈はまだ違うということを自力で分かるには、 どうしたら良いんでしょう。
- 先生: 最終的には自分のgut feelingを信じるしかない。 けれども、自分だけでやるのはとても難しい。 だから、どんなに実力のある有名役者でも、オーディション前や撮影前にアクティングコーチを頼むんだ。 自分が見落としていたものを指摘してもらえる。
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表面的に「ここをこう直せ」と言われてただ直すんじゃなくて、 もっと根本的なところで自分に見えなかったことを指摘されて、 目から鱗が落ちる瞬間というのは、とてもエキサイティングだ。 一気に新しい世界が広がる。 そのためには、わからないということを自分でわかっていて、 その点についての指摘にオープンでありさえすれば良い。
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課題のシーンは "Something's gotta give" (邦題は『恋愛適齢期』だったっけ?) の ワンシーン。主人公Harryは若い女の子をとっかえひっかえしてNYのポップカルチャー界隈で 華やかな生活を送ってるけど寄る年波には勝てない。ある若い子とビーチハウスでデート しようとした矢先にその子の母親Erica(劇作家、離婚済みで独身)と鉢合わせ、さらに心臓発作を 起こしてしまい、そのビーチハウスでしばらくEricaと過ごすことに、何やかんやでEricaと いい感じになるんだけど、快復してビジネスに復帰した矢先、 レストランで別の若い子とデートしてるところをEricaに見られて、 ちょっと修羅場。Ericaはレストランを飛び出し、Harryが後を追う。 追いついた後の会話が課題のシーン。冒頭近くにこんなやりとりがある。
HARRY Come on, it's just a dinner ... ERICA Look, Harry, here's the problem. I really like you. HARRY I really like you. ERICA Yeah, but I love you like you. (that stops him) I do. I love you. Harry swoons and not in a good way. HARRY I think maybe you should consider that you're in love with the idea of being in love.
わからなかったのはHarryの"I think..."のせりふ。
もちろん英文単独での意味はわかる。でもその文脈がわからない。 というのも、Harryは最終的にEricaに好きになってもらいたいわけで、 そしたら直前でEricaは率直にI love youって言ってくれたわけだ。 欲しいものが手に入ったのに、なんでそれを否定するようなことを言う?
自力で考えて持っていったのは、HarryはEricaとくっつきたいが、 そういう真剣な関係を持つことはこれまでの華やかな生活を手放すことになるから、 それを怖れている。なので直球で来られると思わず避けてしまった、という解釈。
でもそれだと、この後のシーンの流れとうまくつながらないのだ。以降、クラスでのやりとり:
- 先生: "What are you doing in this line? Why did you say this?"
- 私: "Yeah, this line is actually... I did't quite understand emotionally. Intellectually, I've analyzed that I'm deflecting here, for I'm afraid of committing."
- 先生: "I don't think deflecting is working. What do you want?"
- 私: "Love. Forgiveness. Yeah, that bothers me. I want love, and she just gave me love. She said it straight. Why do I deflect?"
- 先生: "Right. And if you get what you want, the scene ends here. The movie ends here and the audience will demand refund. So you can't get what you want here yet. By the way, you are doing very well in other part of the scene..."
- 私: "Oh, well, I'm not sure ..."
- 先生: "There! What are you doing right now? If somebody compliment you, what would you do? I think it's also typical in Japanese culture."
- 私: "Being humble? Hiding pleasure? Ah,..."
- 先生: "Whatever it is, you're on the right track. Why would you do that in this circumstance?"
- 私: "Because I want more. It's not enough. Aha, that makes perfect sense."
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もしこの脚本を自分が翻訳するとしたら、この部分はどう訳していただろう。 もちろんこういう「解釈」を陽に出してしまうのは、原著者の意図にも反するだろう。 直接言わないからより効果的であること、というのはよくある。 でも、この「流れ」を意識するかしないかは、些細な訳語の選択や語尾の言い回しに 微妙に影響を与え得ると思う。このせりふだけでなく、シーン全体に渡って。
翻訳者は自身の解釈を一切挟むべきでない、という態度にも一理ある。 けれど、英語と日本語では情報を担うレイヤが異なる。 日本語の一人称代名詞には英語よりはるかに多くの情報を載せられる。 英語には日本語の訳語を当てはめるとほぼ同じになってしまうのに、 微妙に異なるニュアンスを持つ動詞がたくさんある。 単語や文レベルで欠落してしまう情報を補うには、 翻訳においてもなるべく原文と同じ大きな「流れ」を作り出せるような方針で 言葉を選んで行くしかない。表面的な言葉だけにこだわると、 原文の流れは欠落した情報によってぶつ切りになって、 何を言いたいかよくわからない訳文になってしまう。
(なお、戯曲や脚本は多くのレイヤが緻密に組み合わさっていて、 詩に次いでもっとも翻訳が難しい形式だと思う。戯曲は自分には訳せる気がしない。)
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こう考えると翻訳というのはとんでもなく難しい話で、 うかつに手を出せないと思ってしまうかもしれない。
でも、演奏だろうが演技だろうが何だって、考え出せばどれもとんでもなく難しい話なのだ。 しかも、やればやるほどかえって難しさがわかってくる。 だからこそ面白いんだと思う。 最初から完璧に出来る人などいない。そもそもトップのプロだって 完璧に出来るとは思っていないだろう。毎回毎回、自分に出来る範囲をやりきるしかない。
それでも、今はまだ見えてない扉がある、ということを知っておいて、 その扉を開けるきっかけを受け取れるようにオープンであること、 そしてきっかけが来たときに開けられるよう準備しておくこと、 それが楽しむコツじゃないかな。
(今回のクラスの先生はやさしいんだけど、厳しい先生もいる。その先生が言ったとても重要なことが、 "Don't take it personally" だ。今回の翻訳に関する議論で言葉が強すぎると感じた人は参照して欲しい。)
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