2010/09/19
日常とドラマ
ネット上で、「ドラマを描かずに日常の描写を積み重ねる」みたいな評をちらほら目にすることがあって (特に何に対する評、ってわけじゃなく、そういう評自体をちょくちょく目にするなあってこと)、その度に気になってたんだけど。
チェーホフの芝居も当初、「これは日常がだらだら続いてるだけでドラマが無い」って言われてたんじゃなかったかな。そんで、ドラマって何よ、って話になって、それは表面的な出来事にではなく登場人物の内的の葛藤にあり、とりたてて「ドラマチック」な事件を起こさないでも日常を題材にするだけでドラマは描けるじゃないか、ってわかったと。20世紀初頭あたりの話。
もちろん、平凡な日常を描いてその内面のドラマを表現するにはより微妙で緻密な演技術が必要とされて、あるいはそういう演技術が生まれたから平凡な日常でドラマを表現することが可能になったのかもしれないけれど、スタニスラフスキーシステムなんてのはそういう文脈の中で出てきたもんだと理解している。
「日常系アニメ」ってのがあるらしいが、もしアニメーションでも出来事によらず内面のドラマを表現するようになったのであれば、そこには何らかの表現方法の進化があったのかなあとも思うけれど、どうなのかな。3Dアニメーションに関して言えば扱える情報量の増大がドラマの表現に寄与していることは確かだと思うけど。
(追記2010/09/20 11:55:49 UTC): http://twitter.com/kumoriharu/status/24996617665
デジタル様のおかげで作り込みが無限にできるようになった、というのは2Dでも同じ。あと雑用が圧縮されて本題に集中できるようになってるなあとは感じる。アニメは圧縮可能な雑用多いし。 | Island Life - 日常とドラマ
ああなるほど。工程上の変化があったわけか。
もっともアニメの場合、カット割も含めてどういう芝居をどう見せるかってところは 工程のかなり上流で決まっちゃうと思うのだけど、 後でリファインに時間をかけられることを見越して細かい芝居をさせてるって ことなのかな?
Tag: 芝居
2010/09/17
毎日が楽日
こないだChatonで「千秋楽の舞台には特別な思い入れがあるか」って話が出て ちょっと考えていたんだけど。
学生の頃は、芝居にせよその他のものつくり(「××祭」とか)にせよ、 それ自体が準備も含めて一種の非日常で、 楽日というのはハレの日々の終わりも意味していた。祭りに向かってぐわっと 盛り上がっていったテンションがその日に最高潮に達するわけで、 思い入れなら押し売りするほどあった。 その後一気にばらして、作ってきた舞台を何もない空間に戻し、 空虚さを埋めるかのように徹夜で打ち上げに突入。 その翌日には勢いで機材運搬用のバンにみんなですし詰めになって あての無いドライブに出たりとか。 結局、日常の感覚が戻ってくるのに1週間くらいかかっていたように思う。
そういったテンションの盛り上がりはわざと作っていたってところもあって、 祭りモードに入ると、人は祭りブースターが作動して普段使ってない部分が 活性化するって性質があるので、それを利用して能力に下駄をはかせていた、 という面がある。火事場の馬鹿力みたいなものかもしれない。 全てが終わって日常に戻った後に振り返って見ると、 あの舞台にいた自分は自分であって自分でないような、不思議な感覚があったものだ。
今はそういうことは無くなった。といっても、涸れたわけじゃない(と思いたい)。
例えばKumu Kahua Theatreで芝居をするなら本番は5週間続くわけで、 その間ずっと祭りモードでいたら生活のいろいろな面が崩壊するだろう。 昼間は普通に仕事しなくちゃならないし、家族のケアもある。 楽日の翌日にも日常生活は回ってゆくから、腑抜けていることもできない。 本番は日常の一部になっていないと困るのだ。 映画でも何週間かの間に不定期に撮影が入ることが多いし、 その期間中にワークショップやら別の稽古やらが入ることもあり、 これまたいちいち祭りモードになってはいられない。
でも、だからといってテンションが低いってわけじゃない。 単に、祭りブースターが無くても必要なテンションを得られるようになっただけだ。 (経験もあるけれど、アクティングのクラスに通ったことも大きい)。
もちろん、打ち込んでやってれば思い入れというのが当然出てくるし、 それは観客にも伝わるだろうけれど、その部分っていうのはトッピング、 あるいは隠し味みたいなもので。 思い入れ無しでまともなものが出せるのを前提に、こっそり入れるのが良い。 きっと、思い入れ特盛りだった学生自体の舞台はさぞかししつこかったろうなあと 今では思う。まあそれはそういうものとして楽しむっていうのもありだろうけど。
で、千秋楽の話。
部活とか劇団でやってた頃と違い、今参加する芝居はどれも、 その公演が終わったら同じ面子でやることはまず無いだろうということがわかっている。 だから、千秋楽は、一緒にやるのは最後、という日である。 うん、なかなか胸に来そうな設定だ。
でも、色々舞台を経験してきて、ほとんどのお客さんというのは、 どの日に来ても一度限り、であることも良くわかってしまった。 また、撮影を経験して、先に何日あろうと、その場で撮ったシーンは OKが出たその一回限りである、ってことも良くわかってしまった。
だから、楽日のテンションというのがあるのなら、 それを初日からずっとキープしないとね。 もうこの面子とやるのは最後、みたいな感慨は、個人的な感傷にとどめておくのがいい。
★ ★ ★
ところで自分はこれまでいくつか雑誌に記事を書いたり 共著で本を書いたりしてきたけど、物書きにはなれないだろうなと思ってる。 祭りモードに入らないとまとまった文章が書けないから。
趣味で書くならいつでも盛り上がった時に書けばいいんだけど、 仕事で書く時は締切りに合わせて祭りブースターに点火しないとならない。 それは自分の場合、かなりしんどいことだということがわかってきた。
芝居がどうにかなったように、書くことも体系的な訓練を積めば 自由にテンションを設定出来るようになるのかもしれない。 でもそこまでして書きたいという願望も無いのだな。
このへん、何かを仕事にするか趣味に留めるかって話に絡んで来るかもしれない。 祭りモードで何かするのが好き、っていうだけなら、 それを仕事にすると多分とても辛いことになると思う。
2010/09/13
手段としてのプロ
『本気』のエントリに関するツイート:
自分もそう思う。
以前書いたように、プロとアマを分かつのは単独の作品の質ではない。 長期的に見た場合に「出来が悪い時でも一定の水準を越えていること」がプロの条件だ。 だって金銭的報酬を受け取っているということは顧客がいるわけで、 その顧客は払ったものに対するアウトプットが出てくることを あてに出来るから払うのである (cf. 20090605-talent-and-money, 20090529-reliability-and-availability)。
もちろん、分野によってプロに要求される「一定の水準」には大きな差がある。 プロスポーツなどのように、要求される水準が極めて高い頂点の世界では、 その水準を満たせる人間はプロとして専業でやっている者のみ、ということになるだろう。
けれどもそうでない分野もある。 通常のプロの水準を大きく飛び抜ける作品をアマチュアが生み出すこともある。 特にそういうことが起きやすいのは、多様性が鍵になる分野だ。 演技の経験が無くても、ある映画の主役のキャラクタにそれまでのリアルの人生が うまく重なり、素晴らしい輝きを見せて高い評価を得る人はいるだろう。 人間はだれでも一冊は小説が書ける、と言った人もいたような。 誰もが全ての人生の可能性を経験できない以上、 「その需要にぴたっとはまる人はこの人だけ」 というケースはいつでもあり得る。 そのことと、その人が継続して役者や小説家を仕事としてゆけるかどうかということは 別の話なのだ。
ただ、ある人が、一発屋ではなく継続してその分野でより良い作品を 産み出してゆきたいと思うなら、理想的な状態は作品を創ることだけを 24時間365日続けられる環境にいることだろう。生活のための仕事に 一日の半分を取られるのではなく。 プロになるという選択は、「最高の作品をつくりたい」という目的の ための手段であり得る、ということだ。
(三谷幸喜の『ラヂオの時間』にこのへんの想いをぶつけた台詞があったような気がする。 放送作家が、普段はクライアントにへつらって不本意な作品ばかり出してるけど、 いつか満足がいく作品を出せる機会があることを信じて歯を食いしばってやってるんだ、 みたいな台詞。)
したがって、「いつでも確実に要求水準をクリアする」というプロ意識と、 「持てる力の全てを注ぎ込んで最高のものをつくる」という一種のアマ意識は 同居し得るものだと思う。仕事で受けた場合は前者を優先せざるを得ない だろうけれど (だから、余暇に自分のつくりたいものをつくるという ニコ動でいう「プロの犯行」が出てくるわけだ)。
プロを手段として選択した人は、 いつか、自分のつくりたいものに全てを賭けられる機会にめぐり逢えると思って やっているんだと思う。 そういう「個人の本気」が、新しい地平を開いてゆくのだろう。
けれども、業界そのものを成り立たせている「しくみ」の部分は 「頼まれた水準をきちんとクリアする」という 割り切ったプロ意識で支えられているわけで。それが崩れると 新しい地平にジャンプしようとしても土台が無くなっちゃう。 どっちが本質、というものではなく、両方見ながらやってかなくちゃね、ってことだな。
2010/09/10
Mai Poina tour終了
去年やったMai Poina walking tour (cf. 20090822-last-stage)、 好評につき今年も日程を拡大してやっていたが今日で楽日。
一回50人 × 一日4回 × 6日、というのが予想だったのだけど、 ふたを開けてみたらほぼ全ての回で予想を上回り、今日は毎回80-100名の 参加があった。トータルで1500人くらいの人に観てもらえたんじゃなかろうか。
しばらく演技してなかったので良い機会だった。 もう少し演技の機会を増やしたいが、仕事の波もあるので難しいなあ。
Mai Poina Cast:
Tag: 芝居
2010/09/09
『Where Men Win Glory』
良い作品は多数の層から出来ているものだ。 ひとつの層に合わせたピントを少しずらすと、 全く別の様相を見せる層がフォーカスして来る。 時を経て遠くから眺めてみると、近くで受けた印象とは異なる全体像が浮かび上がる。
Jon Krakauerの "Where Men Win Glory : The Odyssey of Pat Tillman" もまさにそんな名作のひとつ。どこにピントを合わせるかによって 色々な読み方ができる。
短く紹介するなら、「NFLの現役選手でありながら、9/11テロ後に米軍に志願し、 アフガニスタンで友軍誤射によって命を落としたPat Tillmanの軌跡」ってことになる。 そこにピントを合わせれば、この作品は、無謀とも見える単独行によって 命を落としたChristopher McCandlessを追った "Into The Wild" の延長にあるとも言える。実際、KrakauerはTillmanの人生を生い立ちから 丹念に追うことで、「なぜ彼は、NFLの選手という誰もが素晴らしいと認める 職業を捨ててまで戦地に赴いたのか」という答えをあぶりだそうとしている。 ("Into the Wild" でも、McCandlessは物質的な幸福に背を向けたのだった。 cf. 20081111-into-the-wild)。
けれどもこの作品では、その答え探しはたくさんの層のひとつだ。 Tillmanの人生の軌跡と平行して、 Krakauerはアフガニスタンで起きていたことを解説する。 本書の前半は、ソビエト侵攻前夜から米国の「テロとの戦争」によるアフガン侵略 までの歴史の、良いサマリにもなっている。
中盤以降も複数の層が平行して語られる。 軍隊に入ったTillmanの直面した、理想と現実のギャップ。 Tillmanは「正しいことをする」ために入隊したのだが、 同時入隊のほとんどはむしろ、行き場が無くて軍隊を選んだ若者達だった。 「有名人」であるTillmanに目をつける上官もいた。「いい気になるな」というやつだ。 一方で、Tillmanは尊敬できる軍人にも多く出会う。 軍隊という組織ひとつとってもそこに複数の層がある。
中盤では、イラン戦争中の "Battle of Nasiriyah" が詳しく扱われる。 Jessica Lynchがイラク側に捕獲され、数日後に救出された戦闘だ。 Pat Tillmanも、出動はしなかったものの救出作戦の後方支援として待機していたので 一応関連するのだが、ここでの焦点は別にある。 この戦闘での米軍の死者はほぼ全て友軍誤射によるもので、 そもそも戦闘の発端も米軍自身のミスによるものだった。 Krakauerはいくつかの章を割いて、戦場の混乱の中で友軍誤射が生じるメカニズム、 そして世論をコントロールしようとするブッシュ政権の情報操作を、 証言を元に浮き彫りにしてゆく。
Battle of Nasiriyahの経緯は、Tillmanが命を落とすことになる アフガニスタンのKhost Provinceでの戦闘の経緯の伏線にもなっている。 ここでも、上層部の無理解と判断ミスが発端となり、 敵襲を受けてパニックになる中で部隊内での連絡が分断され、 Tillmanは仲間の銃弾に倒れる。
後知恵で軍規違反やミスを指摘するのは簡単だけれど、その場にいた当事者が どうすれば良かったのか、自分がそこにいたら何が出来たか、という問いに 答えるのは難しい。 正直、一旦運命の歯車が悪い方に回り始めると、個人の力でそれを止めるのは 不可能なように思える。 戦争については、War Gamesの有名なquote、 "The only winning move is not to play." というのは 真実だろう。でも始まっちゃったもんをどうしたら良いのかはわからない。
Tillmanの死後、友軍誤射の事実は隠され、 ブッシュ政権はTillmanを悲劇のヒーローとして情報操作しようとするが、 今度はJessica Lynchのようにうまくは行かなかった。 遺族の絶え間ない追求により度重なる調査がなされ、 多くの証言が情報公開法によって明らかになった。
ただ、Krakauerの筆致は、単にブッシュ政権や米軍の隠蔽体質を糾弾するという だけではない。今回はたまたま米国だっただけで、愚行はどんな組織にも 起こり得る。けれども愚行を避けようと「ものわかりの良い」人間ばかり育てる社会は、 不条理な挑戦を避けるからっぽの人間しか生み出せなくなる。 大きなパースペクティブで見れば、閉塞を乗り越えるには Pat Tillmanのような、あるいはChristopher McCandlessのような人間が 必要なのだ。この主題が、Krakauerの全ての著作に流れる基底音だ。
(Amazon.co.jpだと"Where Men Win Glory"はハードカバーのしか 出てこなかったのだけれど、 ペーパーバック版の方が新しい情報をもとに改訂されているので、 読むならペーパーバック版がおすすめ)。
Tag: 本

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