2012/02/16
好きを仕事にする場合
昨日のエントリで 端折ったところの補足。
好きなことを仕事にする理由として、それに時間を割けるから、というのを挙げたけれど、 その他にもいくつか、好きを仕事にしたい理由はあり得る。
(1) 好きなことに需要があり、他人より生産性がうんと高い場合。 好きでやって技能を磨いていれば、そこらの平均的な人よりはるかに上手くできるように なるだろう。「替えのきく」仕事なら自分がやっても平均程度しか稼げないが、 好きにマッチする仕事をすると同じ時間で何倍も稼げるのなら、 これは好きを仕事にする強力な理由だ。
(2) 他のことがどうしようもなくできない場合。 大抵の人は必要があれば「好きでも嫌いでもない」こともそれなりに出来るものだけど、 たまに「好きなこと以外はどう頑張ってもうまくできない」って不器用な人もいる。 (1)の裏返しだけど。そういう人は好きなことに専念してもらった方が、本人も周囲もハッピーだ。
(3) 好きなことを実現するために、個人では届かない規模が必要な場合。 小説やプログラミングなら一人でも出来るけれど、ものつくりの分野によっては、 たくんさん金がかかるとか、大勢の人を使わないとならないってものがある。 そういうのが好きになっちゃったら、そういう業界に行くことが、 好きなことを続ける唯一の方法だ、っていう場合もある。
(4) その分野の卓越した人とコラボレートしたい場合。 だいたいその分野の優れた人は既にそれを仕事にしているので、 自分もそれを仕事にすることで、一緒に何かやるチャンスはうんと増える。
他にもあるだろうけれど、忘れちゃならないのは、仕事にした以上、 「お金を出す人を満足させる」ことが「自分を満足させる」ことより絶対的に優先されるってことだ。
この二つをなるべく一致させるように行動するのがコツだが、 時にはどうしてもこれらが離れてしまうことがある。
その時、上に挙げたような明確な理由を持っていないと、 「なぜ自分は好きなことを仕事にしてるんだろう」と悩むことになるんじゃないかと思う。
「これが好きでやりたいからこの仕事に就きます」っていうのは、自明な論理じゃない。 むしろ、「これが好きなのに、どうしてわざわざそれを仕事にするの?」って考えてみるべき。
もちろん飛び込んでやってゆくうちに分かってくることもあるし、 理由だって変化してゆくものだから、 最初から考えすぎなくてもいいんだけど。
全く考えないで、ナイーブに「好きだからこの仕事」って思い込んでると、 単に憧れてるだけなのかどうか、自分でも判別できないからね。
Tag: Career
2012/02/15
仕事は手段
世の中には好きでなきゃやってけないような仕事もあれば、 弾さんの言うように好きかどうかなんて関係ない、「代わりはいくらでもいる」仕事もあるわけだが、 どちらにも共通するのは「仕事は手段であって目的ではない」ということだ。
もしかすると、前者の仕事はしばしば、 仕事そのものが憧れの対象になって、 仕事=目的と勘違いされやすいのかもしれない。
でも、好きが昂じて仕事やってる人ってのは、それが仕事にならなかったとしても (=誰も対価を払わなかったとしても)同じことをするだろう。それだけ好きなんだから。 仕事かどうかは関係ないのだ。
ただ、好きなことで対価を得られない場合、喰ってくためには他のことをして 稼がないとならないんで、好きなことに費やせる時間が減る。 好きなことをしてかつ対価も得られるならその心配がない。 つまり、「好きなことを仕事にする」というのは、 「好きなことを最大限やるため」の手段のひとつにすぎないわけだ。
実際には、好きなことを仕事にできたとしても、 その仕事内容の多くは、必ずしもやりたいとは思わないことで占められる。 それが仕事の原理だからだ。 (『好きな仕事の95%』)。
だから、一番好きなことは仕事にせずに、 喰うための「自分にとって比較的苦にならない仕事」を見つけるという戦略だってあるし、 そうしている人はたくさんいる。
いずれにせよ、仕事を探そうと思った時に、「自分はこれが好きだから」を理由に業種を絞るのは本末転倒で、仕事を目的と勘違いする危険がある。
もう好きで好きでたまらないことがある人は、「金になろうがなるまいが、好きなことをする」 というのを目的に据えて、ではそれをやってくにはどう生活を組み立てるか、という視点で 仕事を探すべき。そこで、仕事と好きなことを一致させようと目論むなら、 残りの95%を引き受ける覚悟が必要だ (「覚悟」には、そもそも本当にそんなに好きなのか自分で確かめる、という過程も含む。)
そこまでしてやりたいと思うほど好きなことが見つからないなら、 何だってやってみればいい。下手に「自分はこれがやりたいんだ」なんて思い込もうとすると、 却って視野狭窄にはまって自分を追い込むことになりかねない。 自分にできること、かつやってて非常な苦痛を伴わないこと、 あたりを選択の基準にするのがいいんじゃないかと思う。
- 関連: 好きを仕事にする場合
Tag: Career
2012/02/14
そんなに一般的な話をしてるつもりはないのだけど
『やりたいことかどうかって、やってみないとわからない』に対する弾さんからのかなり斜め上なお返事。
とんでもない。
私が片足突っ込んでる芝居の業界では、「好き」だけで喰ってくことはできずに、金のための仕事を別に持ってる人が多いけれど、day jobの方に愛を捧げよなんて言うつもりはないですよ。
つか最初から「やりたいことを仕事にする場合」の話しかしてないんだけれど…
まあでも、弾さんと私のスタンスはある軸において反対側に偏ってて、おかげで自分でも気づいていなかった前提に気づかせてくれる。同じようにあの記事だけ単独で読んで誤解する人がいるかもしれないので、明示しておこう。
件の記事は、やりたい人がやる、という種類の仕事において、「この仕事がどうしてもやりたい憧れなんですやらせてください」って言って来た人に「じゃあ本当にやりたいと思ってるかどうか自分で確かめなよ。ごく簡単な方法があるから。」と言ってる記事です。そうでない仕事については何も言ってないので、そこんとこよろしく。
Tag: Career
2012/02/14
らむ太とシラブル
自宅が完全に日本語環境なんで、ことばを発し始めた頃は、らむ太はいつも開音節で 発音していた。 近所の子供の英語をオウム返しする時も開音節で、子音で終わる単語の後ろに母音がついてた。 bookを「ぶっくぅ」とかね。
最近は学校ではだいぶ英語で喋ってて、フォニクスも分かってきて、 ちゃんと子音で終わる言葉は子音で終わるように話す。
ところがひらがなの学習を始めてみたら、「ん」が難しいらしい。 例えば「たん」というのは彼にとっては一音節であって、それが「た」と「ん」に分かれる、 という発想にならないようなのだ。
他にも長音などで、日本語のモーラで数えていない感じがある。 喋ってるとちゃんとした日本語なんだけど、 「モーラ」と「文字」を合わせるんではなく 「音節」と「文字」を合わせようとしてるっぽい。このぶんだと「っ」もつっかえそうだ。
ここでつまづくと日本語を習得しそこねるから、しっかりフォローしてやらないとまずいな。
(追記2012/02/15 02:05:26 UTC): そういえば、たまに非日本語ネイティブな役者が都合により日本語の台詞を喋らなくちゃならないってケースで発音を教えることがあるのだけれど、やっぱりモーラが大きな壁なんじゃないかという気がしている。音素の違いは少なくとも本人が気をつければ自覚できるんだけど、モーラは速度を上げてゆくとすぐ崩れて、でも本人には崩れていることがわからないし、正しいモーラでの発音を聞かせても何が違うのか聞き分けられないようだ。
この感じ、ピアノで速いパッセージを練習するのに似てるようにも思う。ちゃんと指と耳が出来てないと、速くしてった時に均等にならないんだけど、自分で弾いててわからない。自分の演奏を録音して聞いても、やっぱり耳が出来てこないとわからない。最近やっと私は自分の録音でずれてるところが少しづつわかるようになってきた。 (でも他の楽器はまださっぱりわからん)
Tag: 生活
2012/02/13
やりたいことかどうかって、やってみないとわからない
最初は下手だし失敗続きだろうけど、 我ながらひでぇ出来だけどとにかく作れたことにちょっと誇りを感じちゃったりとか、 自分の下手さに直面した上でそれでもああもっと上手くなりたいなあと切に願ったりしちゃうかもしれない。 あるいは、作る前には予想もしなかった障害に次から次に出会って、 そこまでしてやりたいわけじゃないや、と気づくかもしれない。
本当に、モノづくりがしたい人は、ひとりで作り始めています。絵を描いたり、曲を作ったり、ゲーム作ったり、映画を撮る人も居る。これは衝動であり、技術がないからやらない、仲間がいないからやらないとかそういうものではないです。
つまりこの学生は、ほんとはモノづくりなんかしたくないんです。ただモノづくりに憧れてるだけ。それを憧れのままにしててモヤモヤ諦めきれずに、なんとなくそれっぽい業界に入りたいと思っている。はっきりいって迷惑です。
至極当然のことが書いてあるなあと思って読んでたんだけど、 はてブを見たら、全然違うふうに取ってる人がいてちょっと驚いた。 曰く、育ててる余裕がないから即戦力が欲しいだけじゃないかとか、 大学や専門学校では会社で必要なスキルは学べないんじゃないかとか。
いや、「学生時代に何か作って得たスキル」が即戦力になることなんて期待してないと思うよ。
もちろん学生時代からプロで通用するすごい人は時々いるけど、 そういう人は業界が放っとかないのでこの話の対象外。
それ以外の人は「特別な実績もスキルもない新卒学生」でいいんだよ。 「仕事のスキル」は現場で教えられるし、「実績」は仕事でしか積めないんだから。 多くの人は、やりたい人に教える気は持ってるし、教えたいと思っているはずだよ。
だけれど、「これがやりたい仕事である、と本当に思っている」ってことは、 応募にあたっての最低限のラインじゃないかな。でなけりゃ教えたって無駄になっちゃう。
一度も何かを完成させたことがないってことは、 これをやりたいって心底思ってるのか、 それとも単にこれもいいかもしれないなとぼんやり夢見ているのか、 自分自身にだって判断する術が無いってことじゃん。
もちろん、それをどう判断するかっていう方法は業種によって違う。 現場に入らないと経験が出来ないって業種もあるだろうし、 そういうところでは「受ける前に経験積んでこい」ってのは無茶な話だ。
ただ何かを創作する業種なら、現場に入る前にやってみることができるし、 本当にやりたいかどうかの適性判断テストとして他の方法はないと思う。 (それにパスしたうえで、なお「自分はこれを仕事としてやるよりアマチュアでやってゆく 方が向いている」と気づくことはあるけれど)。
言い方が偉そうで気に入らないって人もいるみたいだけど、 別に理不尽な要求してるわけじゃない。本当にやる気がないのは (あるいは「やる気がある」と自己暗示をかけてるだけの一時の気の迷いは) 「ひやかし」だ。ひやかしは勘弁して、っていうのがそんなに偉そうかな。
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ちょっと似た構図だなと思ったのが、最近あった、 岩波書店の「応募には社員か著者の紹介が必要」という要綱への賛否両論。
否定派は「この慣習が広まったら就活のハードルがさらに上がる」って心配してるみたいなんだけど、 自分はこの業種でこの会社だから意味を持つ条件であって、広まる必然性が無いと感じた。 編集者さんと付き合いがあるだけで、出版業界の中はよく知らないから 外しているかもしれないけれど。
ある出版社の本を読んで著者と意見交換したくなったら、その方法はたくさんある。 そういうことを、就職なんて関係なしに、既に自分からしちゃってる人と、 岩波が採りたいと思っている人の適性とがかなり一致してるってだけじゃないかな。 今まで一度も著者と連絡を取りたいと思ったことが無かったとしたら、 そもそもどうして自分が出版業界に向いてるって思ったのだろう。
ジェネリックな適性検査や筆記試験、 あるいは曖昧な「やる気」や「コミュニケーション力」を要求する面接の方が ずっと非人間的な、ひどい選考方法だと思うけど。
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まあこういう条件を明示することで、こんどはコネを作るのがテクニック、みたいに なっちゃう可能性はある。最初の話にしても、「就職に必要だというから とりあえず学校の課題で作ってみました」みたいなポートフォリオを揃えてくる人はいるだろう。 そうなっちゃたらまたその時に考えればいいことで。
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