2011/11/06
らむ太の質問
昔はひとつ質問してひとつ答えが返ってくるとそのトピックについてはそれで 満足していたのだが、だんだんひとつの事について突っ込んで聞くようになってきた。
- 私: (運転中)
- ら: あ、虹だ。ねぇとうさん、虹ってどうしてでるの?
- 私: あっちで雨が降ってて、こっちから陽が射してるでしょ。 雨の細かい粒に陽の光が反射して見えるんだよ。
- ら: どうして雨に光が反射するの?
- 私: 雨は水の小さな粒でしょ。水が鏡みたいになって光を反射するんだよ。
- ら:でもどうして色がたくさん出るの? 鏡は色がいろいろ出ないでしょ。
- 私: うーんっと、太陽の光には全部の色が混ざってて、色によって反射や屈折の仕方が ちょっと違うからなんだけれど… 言葉で説明できないから帰ったら絵を見せるよ。
光が波であることに踏み込むかどうかちょっと迷った。
- ら: (六角形の模様を見つけて) ねぇとうさん、この形なんだっけ。
- 私: 六角形だね。
- ら: ろっかっけい。蜂の巣と一緒だね。ねぇ、蜂の巣はどうして六角形なの?
- 私: 六角形のつながった形が一番丈夫なんだよ。
- ら: どうやって蜂は六角形をつくるの?
- 私: むー、それは父さんもよくわからないなあ。なるべくくっつけるように部屋を作ってくと 六角形になると思うんだけど…
- ら:あ、わかった。蜂はお尻の針をノコギリにして六角形を切るんじゃない?
- 私: ははは。そうだとしても蜂は六角形を知っているのかな。不思議だねえ。
子供の質問に対してすぐ答えるんじゃなくて、「どうしてだと思う?」って考えさせると良い、 という話も読んだのでやってるんだけど、それでもわからないと、 納得するか他のトピックを見つけるまで延々と聞いてくる。
本を自力で読めるようになってくれれば『○○のふしぎ』系の書物へとこの好奇心を 向けられると思うんだが…
Tag: 生活
2011/11/05
10 of two
これも「学校では教わらなかった英語」だなあ。
クリントン元大統領とオバマ大統領の違い - himaginaryの日記に引用されているサマーズの発言:
If you have a 2:00 meeting scheduled with Barack Obama, the meeting might begin at 10 of two … and it surely will have begun by 10 after two.
この "10 of two" は "10 to two" と同じで「2時10分前」という意味のはず。
この表現、誰かとメールのやりとりしている時に出てきたんだったか、 意図がわからなくて相手に確認したのを覚えている。
また出会ったので興味を持ってぐぐってみたのだけれど、ひどく検索しにくい語句でよくわからんかった。
- What does "quarter of 2" mean 1:45 or 2:15? - Yahoo! Answers こちらのやりとりでは、どうもUSの中でも地域的なものらしい。
- http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1111833356 こちらの最後の回答では「toのかわりにoffを使う人もいる」とある。確かに"$1 off"などの用法と似ているとは考えられるが、個人的にはoffを使っているのを聞いたことも見たこともなく、ぐぐっても実際の英語の用例をみつけることが出来なかった。
Tag: 英語
2011/11/03
ピアノレッスン21回目
今週はかなり忙しかったのであんまり練習できんかった。
- 基礎: スケール、アルペジオMM=144。アルペジオの方が調子良くなった。
- ベトベン、テンペストソナタ: 第2楽章をゆっくり (8分音符=60)で再現部まで。緩徐楽章だけどこれ速い第1楽章より難しい。が、嵐が過ぎた後の壮大な夕焼けを見ているようで好きだ。
- 複符点8分音符+32分音符のリズムが甘くならないように気をつける。特に第2主題。
- ペダルは控えめに、指使いでレガートを保つ。装飾音的な左手をクリアに。
- ちょい時間余ったのでカプースチンOp40-2を久々に (MM=72)。まだばたばたする感じ。レッスン室のピアノでカプースチン違和感がある理由が分かった気がする。うちよりもアタックが出にくいんだな (そのかわり、pp-pのレンジはすんごく出しやすい)。
昔、良い演奏家に共通する要素の統計をとったら、第一は練習量なんだけど、 第二が十分な睡眠時間であったっていう記事をどっかで読んだことがあった。 確かに、睡眠不足だと練習時間取っても集中できないんで全然ダメなんだよな。
Tag: Piano
2011/11/01
フローについて
こんな記事を見かけた。チクセントミハイの『フロー体験』の紹介。
「フロー」という状態については、主としてプログラマや役者の集中に関連して読んだり聞いたりしたことがあって、過去にこんなエントリを書いたりもした。
ただ、『フロー体験』そのものは読んだことがなかったので、上の記事の紹介は興味深かった。ふたつばかり気づいたことのメモ。
モンテッソーリ教育との関連
上の記事で触れられている、教育への応用の項目を読むと、 モンテッソーリの教室で起きていることそのもののような印象を受ける。 で、ちょっとぐぐってみたらWikipediaの英語の方に記述があった。 とはいえ論文は2000年代中頃からだから、関連が注目されたのはわりと最近なのかな。
http://en.wikipedia.org/wiki/Flow_%28psychology%29
Around 2000, it came to the attention of Csíkszentmihályi that the principles and practices of the Montessori Method of education seemed to purposefully set up continuous flow opportunities and experiences for students. Csíkszentmihályi and psychologist Kevin Rathunde embarked on a multi-year study of student experiences in Montessori settings and traditional educational settings. The research supported observations that students achieved flow experiences more frequently in Montessori settings.
マイズナーテクニックとの関連
マイズナーテクニックの Independent Activity の選択基準が、 フロー体験を生み出す4つの基準のうち3つと良く似ている。
- 「取り組んでいる内容が、自分の能力と照らしあわせて難しすぎず、簡単すぎずであり、全能力を出しきることを要求されるレベルにあること。」:Independent Activity では、 自分のスキルでぎりぎり達成可能な難易度のタスクを選ぶ。
- 「取り組んでいるものに対して、自分がコントロールができるという感覚、可能性を感じていること。」: マイズナーは明確に言っていないけれど、少なくとも成否が自分の行動にかかっているという課題を選ぶことは暗黙に想定されていると思う。運任せの課題ではIndependent Activityは成立しない。
- 「取組んでいることに対して、即座に「それは良いか、よくないか」というフィードバックが返ってくること。」:Independent Activityでは「出来たか、出来ないか、どのくらい出来たかが客観的にその場でわかること」という性質を持つタスクが推奨される。
そして、エクササイズの開始時点では、「集中を妨げる外乱のシャットアウト」も満たされている。 Independent Activityは確かに、まず役者がフロー状態へ入ることを指向しているようだ。
Independent Activityのエクササイズでは、一人の役者が舞台上で課題を始めて、 「十分に没入した時」に、パートナーがノックをして入ってくる。 それからRepetitionを始めるわけだが、これは「いかにしてフロー状態のままReactするか」 というエクササイズ、と見ることが出来るのかもしれない。
Tag: 芝居
2011/10/31
(ホン)ヤクシャ
村上春樹、柴田元幸:『翻訳夜話』。
こう言うとおこがましいけれど、自分の翻訳に対する感覚は村上氏に近いの かもしれない (技術は置いといて)。普通のことが普通に書かれていて、 普通でないことは出てこなくて、さらりと読めてしまった。 とても楽しそうに翻訳を語っているのはいいなあ。
翻訳者は、作品を外から眺める鑑賞者の立場ではなく、 むしろ作者と対象との関係の間に入っていって、作者の目で対象を眺め、 作者の創作プロセスを追体験しようとするものだ、というような話が出てきて、 まったくそうだなあと思うと同時に、役者も良く似ていると感じた。 (本書では音楽の演奏者になぞらえていたけど)。 役者の場合は、登場人物と状況との関係の間に入っていって、 登場人物の目で状況を眺めるのだけれど、 そうすると外から見ていたのではわからないことが見える(ような気がする)ことがある。 これについては稿を改めて書くかもしれない。
興味深かったのは、カーヴァーとオースターの短篇の、 村上氏と柴田氏による競訳。といっても興味を引かれたのは、 どっちの訳がどうという個別の話じゃなくてもうちょっとメタな話で、 翻訳作品の読み比べは、クラシックの一つの曲の演奏者による違いを聞き比べるのともよく似ているなあということ。 個々の具体的な違いってのは案外すんごく細かくて、それほど深く関心を持ってない人にとっては まったく些細な、どうでもいいような違いだったりするんだろうな、と思うけれど 細かく見て行くといくらでも考えを広げられて、でも最終的には翻訳者/演奏者の感性に 帰着しちゃう、ってあたりとか。
でも、それにも増して一番印象に残ったこと。両氏が競訳したカーヴァーとオースターの短篇の 原作が巻末に収録されているんだけど、ああ、やっぱり原文が一番いいや、と思ってしまった。
原文至上主義ではないし、訳をけなすつもりもないし、翻訳という行為が無意味だと 言うつもりもないけれど、この短篇について、翻訳を読んだ時に感じなかった、 ぐいっと引き込まれる力を、原文から受けたのは確か。 訳と見比べてどこが違うってわけじゃないんだけれど、強いて言うならやっぱりリズムかなあ。
まあそれはもしかすると、母国語でない英語を読む際にはモードが違うから そう感じるだけで、両方ともネイティブレベルな人が比較したら違う印象を受けるかもしれない。 これはもう、客観的な判断のしようが無いのだけれど。
★ ★ ★
今度朗読する詩でも、原文は日本語の定型詩で、その英訳があるんだけれど、 原文のリズムとそれによって作られるストーリーが 翻訳で失われるのは、それはもう仕方ない。 使う英訳テキストは、リズムについてはかなり自由で、意味中心に訳してある。
例えば、原文にはこんな一節がある。
(マエダ・カネ『二十五尺に二十尺』より引用)
己が一人にあらざれば
沈む心をふりたてて
泥によごれし板切れを
あつめてはまづ腰下ろす
ここは綺麗に7+5だけど、最初の3行では7の中が3+4なのに、最後の行だけ5+2になってる ([7+5 7+5 7+5 5+7]、と読むこともできる。) ストーリー的に、ここでよっこらしょと気持ちに一区切りつけて、 次の節へのつなげているわけですな。 文法的には「あつめてまづは」でも通るけど、これだと4+3になってあまり差が無くなり、 よっこらしょ感が減る。
んで、こういうのを英語に移し替えられるかというと、そりゃまあ単語やフレーズを うまく選択してシラブル数を合わせてやれば出来なくはないだろうけれど、 その制約のもとで意味も離れないようにするのは相当難しいだろう。
こう考えてくと翻訳なんて無理じゃんって話になりそうなんだけど、 ここでもうひとひねりある。
こうやってリハーサルで「原文はこうで…」って話をすれば、 「じゃあ英訳を読むときにその呼吸をどうにかして活かしてみよう」という話になるのだ。 翻訳という一段目の変換では移しきれない情報を、演じるという二段目の変換で 掬い取れる可能性がある、というのは面白い。
作品を、完全無欠で他人が手を加えることなど畏れ多いもの、とする向きもあるだろうけど、 それを言ったら翻訳なんて成り立たなくなるし、演奏や演技というのもまた不可能になるだろう。 演奏や演技も、「上手くやってやろう」とか「自分の色を出そう」とするのと却って 上手くいかなくて、結局は自分を媒体としていかに元の作品を素直に流すかって ところに行くような気がする。翻訳もまた、そういう表現の一つの形態なんだろう。

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