2011/11/05
10 of two
これも「学校では教わらなかった英語」だなあ。
クリントン元大統領とオバマ大統領の違い - himaginaryの日記に引用されているサマーズの発言:
If you have a 2:00 meeting scheduled with Barack Obama, the meeting might begin at 10 of two … and it surely will have begun by 10 after two.
この "10 of two" は "10 to two" と同じで「2時10分前」という意味のはず。
この表現、誰かとメールのやりとりしている時に出てきたんだったか、 意図がわからなくて相手に確認したのを覚えている。
また出会ったので興味を持ってぐぐってみたのだけれど、ひどく検索しにくい語句でよくわからんかった。
- What does "quarter of 2" mean 1:45 or 2:15? - Yahoo! Answers こちらのやりとりでは、どうもUSの中でも地域的なものらしい。
- http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1111833356 こちらの最後の回答では「toのかわりにoffを使う人もいる」とある。確かに"$1 off"などの用法と似ているとは考えられるが、個人的にはoffを使っているのを聞いたことも見たこともなく、ぐぐっても実際の英語の用例をみつけることが出来なかった。
Tag: 英語
2011/11/03
ピアノレッスン21回目
今週はかなり忙しかったのであんまり練習できんかった。
- 基礎: スケール、アルペジオMM=144。アルペジオの方が調子良くなった。
- ベトベン、テンペストソナタ: 第2楽章をゆっくり (8分音符=60)で再現部まで。緩徐楽章だけどこれ速い第1楽章より難しい。が、嵐が過ぎた後の壮大な夕焼けを見ているようで好きだ。
- 複符点8分音符+32分音符のリズムが甘くならないように気をつける。特に第2主題。
- ペダルは控えめに、指使いでレガートを保つ。装飾音的な左手をクリアに。
- ちょい時間余ったのでカプースチンOp40-2を久々に (MM=72)。まだばたばたする感じ。レッスン室のピアノでカプースチン違和感がある理由が分かった気がする。うちよりもアタックが出にくいんだな (そのかわり、pp-pのレンジはすんごく出しやすい)。
昔、良い演奏家に共通する要素の統計をとったら、第一は練習量なんだけど、 第二が十分な睡眠時間であったっていう記事をどっかで読んだことがあった。 確かに、睡眠不足だと練習時間取っても集中できないんで全然ダメなんだよな。
Tag: Piano
2011/11/01
フローについて
こんな記事を見かけた。チクセントミハイの『フロー体験』の紹介。
「フロー」という状態については、主としてプログラマや役者の集中に関連して読んだり聞いたりしたことがあって、過去にこんなエントリを書いたりもした。
ただ、『フロー体験』そのものは読んだことがなかったので、上の記事の紹介は興味深かった。ふたつばかり気づいたことのメモ。
モンテッソーリ教育との関連
上の記事で触れられている、教育への応用の項目を読むと、 モンテッソーリの教室で起きていることそのもののような印象を受ける。 で、ちょっとぐぐってみたらWikipediaの英語の方に記述があった。 とはいえ論文は2000年代中頃からだから、関連が注目されたのはわりと最近なのかな。
http://en.wikipedia.org/wiki/Flow_%28psychology%29
Around 2000, it came to the attention of Csíkszentmihályi that the principles and practices of the Montessori Method of education seemed to purposefully set up continuous flow opportunities and experiences for students. Csíkszentmihályi and psychologist Kevin Rathunde embarked on a multi-year study of student experiences in Montessori settings and traditional educational settings. The research supported observations that students achieved flow experiences more frequently in Montessori settings.
マイズナーテクニックとの関連
マイズナーテクニックの Independent Activity の選択基準が、 フロー体験を生み出す4つの基準のうち3つと良く似ている。
- 「取り組んでいる内容が、自分の能力と照らしあわせて難しすぎず、簡単すぎずであり、全能力を出しきることを要求されるレベルにあること。」:Independent Activity では、 自分のスキルでぎりぎり達成可能な難易度のタスクを選ぶ。
- 「取り組んでいるものに対して、自分がコントロールができるという感覚、可能性を感じていること。」: マイズナーは明確に言っていないけれど、少なくとも成否が自分の行動にかかっているという課題を選ぶことは暗黙に想定されていると思う。運任せの課題ではIndependent Activityは成立しない。
- 「取組んでいることに対して、即座に「それは良いか、よくないか」というフィードバックが返ってくること。」:Independent Activityでは「出来たか、出来ないか、どのくらい出来たかが客観的にその場でわかること」という性質を持つタスクが推奨される。
そして、エクササイズの開始時点では、「集中を妨げる外乱のシャットアウト」も満たされている。 Independent Activityは確かに、まず役者がフロー状態へ入ることを指向しているようだ。
Independent Activityのエクササイズでは、一人の役者が舞台上で課題を始めて、 「十分に没入した時」に、パートナーがノックをして入ってくる。 それからRepetitionを始めるわけだが、これは「いかにしてフロー状態のままReactするか」 というエクササイズ、と見ることが出来るのかもしれない。
Tag: 芝居
2011/10/31
(ホン)ヤクシャ
村上春樹、柴田元幸:『翻訳夜話』。
こう言うとおこがましいけれど、自分の翻訳に対する感覚は村上氏に近いの かもしれない (技術は置いといて)。普通のことが普通に書かれていて、 普通でないことは出てこなくて、さらりと読めてしまった。 とても楽しそうに翻訳を語っているのはいいなあ。
翻訳者は、作品を外から眺める鑑賞者の立場ではなく、 むしろ作者と対象との関係の間に入っていって、作者の目で対象を眺め、 作者の創作プロセスを追体験しようとするものだ、というような話が出てきて、 まったくそうだなあと思うと同時に、役者も良く似ていると感じた。 (本書では音楽の演奏者になぞらえていたけど)。 役者の場合は、登場人物と状況との関係の間に入っていって、 登場人物の目で状況を眺めるのだけれど、 そうすると外から見ていたのではわからないことが見える(ような気がする)ことがある。 これについては稿を改めて書くかもしれない。
興味深かったのは、カーヴァーとオースターの短篇の、 村上氏と柴田氏による競訳。といっても興味を引かれたのは、 どっちの訳がどうという個別の話じゃなくてもうちょっとメタな話で、 翻訳作品の読み比べは、クラシックの一つの曲の演奏者による違いを聞き比べるのともよく似ているなあということ。 個々の具体的な違いってのは案外すんごく細かくて、それほど深く関心を持ってない人にとっては まったく些細な、どうでもいいような違いだったりするんだろうな、と思うけれど 細かく見て行くといくらでも考えを広げられて、でも最終的には翻訳者/演奏者の感性に 帰着しちゃう、ってあたりとか。
でも、それにも増して一番印象に残ったこと。両氏が競訳したカーヴァーとオースターの短篇の 原作が巻末に収録されているんだけど、ああ、やっぱり原文が一番いいや、と思ってしまった。
原文至上主義ではないし、訳をけなすつもりもないし、翻訳という行為が無意味だと 言うつもりもないけれど、この短篇について、翻訳を読んだ時に感じなかった、 ぐいっと引き込まれる力を、原文から受けたのは確か。 訳と見比べてどこが違うってわけじゃないんだけれど、強いて言うならやっぱりリズムかなあ。
まあそれはもしかすると、母国語でない英語を読む際にはモードが違うから そう感じるだけで、両方ともネイティブレベルな人が比較したら違う印象を受けるかもしれない。 これはもう、客観的な判断のしようが無いのだけれど。
★ ★ ★
今度朗読する詩でも、原文は日本語の定型詩で、その英訳があるんだけれど、 原文のリズムとそれによって作られるストーリーが 翻訳で失われるのは、それはもう仕方ない。 使う英訳テキストは、リズムについてはかなり自由で、意味中心に訳してある。
例えば、原文にはこんな一節がある。
(マエダ・カネ『二十五尺に二十尺』より引用)
己が一人にあらざれば
沈む心をふりたてて
泥によごれし板切れを
あつめてはまづ腰下ろす
ここは綺麗に7+5だけど、最初の3行では7の中が3+4なのに、最後の行だけ5+2になってる ([7+5 7+5 7+5 5+7]、と読むこともできる。) ストーリー的に、ここでよっこらしょと気持ちに一区切りつけて、 次の節へのつなげているわけですな。 文法的には「あつめてまづは」でも通るけど、これだと4+3になってあまり差が無くなり、 よっこらしょ感が減る。
んで、こういうのを英語に移し替えられるかというと、そりゃまあ単語やフレーズを うまく選択してシラブル数を合わせてやれば出来なくはないだろうけれど、 その制約のもとで意味も離れないようにするのは相当難しいだろう。
こう考えてくと翻訳なんて無理じゃんって話になりそうなんだけど、 ここでもうひとひねりある。
こうやってリハーサルで「原文はこうで…」って話をすれば、 「じゃあ英訳を読むときにその呼吸をどうにかして活かしてみよう」という話になるのだ。 翻訳という一段目の変換では移しきれない情報を、演じるという二段目の変換で 掬い取れる可能性がある、というのは面白い。
作品を、完全無欠で他人が手を加えることなど畏れ多いもの、とする向きもあるだろうけど、 それを言ったら翻訳なんて成り立たなくなるし、演奏や演技というのもまた不可能になるだろう。 演奏や演技も、「上手くやってやろう」とか「自分の色を出そう」とするのと却って 上手くいかなくて、結局は自分を媒体としていかに元の作品を素直に流すかって ところに行くような気がする。翻訳もまた、そういう表現の一つの形態なんだろう。
2011/10/30
帰る場所
最近、あけっぴろげにツッコミを誘い、読者のスルー力に挑戦し続けているかのような内田樹さんのブログだが、このエントリには困惑を覚えた。
大学と教師には、「卒後の自己教育」にとっての観測定点であり続けるという重要な任務がある。
卒業生たちは私を見ると「先生、少しも変りませんね」と言う。
それは客観的な記述をしているのではなく、むしろ彼女たちの主観的願望を語っているのではないか。
「先生は、少しも変わらないままでいてほしい。そうしてくれないと、自分がどれくらい成長したのか、どれくらい変わったのかが、わからない」そういうことではないかと思う。
この感覚が、全くわからない。
力を合わせて何かを作る時、その過程で参加者全員が変化する。何かを一緒に為したなら、 それを為す前の自分はもういないし、それを為す前の相手ももういない。 生徒と教師であってもそれは同じだ。無論、教師が遥かな高みにいるために、 その変化が生徒には見て取れないということはあり得るだろう (というか、生徒と同じように教師も変化してしまったら生徒は迷うばかりだから、 少なくともその時点において、教師が「変わらないふりをする」のは重要だ)。 でも卒業後何年も何十年も経ってから、当時の先生から「あの時、自分もこう変わったのだ」 という話を伺うことは大変面白いし、むしろその変化の原因の一旦を自分が担っていた、 ということこそが、その時その場所に自分がいたことの証ではないだろうか。
このことを、研究者であり武術もやっている内田氏が知らないはずはない。 だとすれば、このエントリで言っていることは、「自分は変わっているのだけれど、 教え子が『ウチダセンセは変わらない』ことを期待しているから、今でも変わってないふりをしておきましょう」 ってことじゃないか。
でもそれでいいんだろうか。あなたの知っている内田教官は、 もうあなたや私の想い出の中にしかいないんだよ、 懐かしのキャンパスを訪れてみたところで、得られるのは感傷だけだよ、 という現実を突きつけるのは酷だとでも言うのだろうか。
自分の成長を測る定点は、他人でも、大学といった場所でもない。 過去の自分が作り出した作品。それが、当時の自分を標本として固定する唯一の証拠である。
それとて、芝居みたいなephemeralなものを作っていたとしたら、想い出の中にしか残らない。 公演の度に仮設舞台を作ったあの高校の教室や、 汗の染み込んだデカ台のあったあの北ホール(駒場小劇場)さえも、もう物理的に存在しない。
自分の根というのは、外部に求めるものではないだろう。
自分の心の中のどこかに、あの時のあの空間は、まだ存在している。 そこを訪れようと思えばいつでも訪れることが出来る。
その帰る場所は自分の心の中だけにあるわけじゃない。 あの時のあの空間を共有した人となら、一緒にそこを訪れることもできる。
今、ここでこれを為すことで、全員が変化する、その覚悟を持ってことに当たれば、 皆の心の中に、その帰る場所が作られる。
大学を卒業したあとも、自己教育は続く。
そのとき自分がほんとうは何をしたかったのか、何になりたかったのか、どんな夢を思い描いていたのかが「そこにゆけば、ありありと思い出せる場所」は不可欠のものである。
そういう場所を、自分と仲間の心の中に作りなさい、 そのためには、誰かが変わらず見守ってくれるだろうなんてことはアテにせず、 今、ここに生きている証を刻み込むつもりでことに当たりなさい。 高校や大学で教えられるのは、そういうことなんじゃなかろうか。
★ ★ ★
もひとつ。
人に対して「変わりませんね」と言う時、それはその人がやっていることが 本当に変わってないのではなく、その人の変化する様が変わっていないということ なんじゃないかと思う。一次微分の部分に一貫性があるというか。
もし、学校時代の先生が、その後不意に大学の仕事を辞めて、ラッパーになったとか、デイトレーダーになったとか、蕎麦打ちになったとかいうことになると、「学校出てから・・・」という卒業生たち自身の「振り返り」はむずかしくなる。
想像してみても、「60歳過ぎてから突然『自称プロサーファー』になった恩師」とか「70歳過ぎてベガスのカジノで10億稼ぎ、今は若いモデルと六本木ヒルズで暮らしている恩師」とかを囲んでの同窓会はたぶんあまり楽しくないと思う。
変わってしまった先生にどう話しかけていいか、わからないからだ。
えー、変わってしまった先生、とっても面白そうじゃないか。
むしろ一切何も変わっていない方が、話すことが見つからないだろうと思う。 とはいえ、傍目には同じ事をやりつづけている人だって、その内面では変化があるはずで、 久々に会って話して楽しいのは、やっぱりその隠れた変化分を見ているのだと思う。
何か、変わらないものがあるという確認のために他人を定点観測に使うような態度そのものが 私は好きでないのかもしれない。 まあ、そういう需要はあるのかもしれないし、内田氏がそれに合わせようとするのは 個人の選択ではあるけれど、それはゴマカシだと思うし、それを「大学の役割」といった言葉で 正当化しようとするのは、あまり好きじゃないな。
ああ、結局スルーしきれずに内田さんに釣られちゃったってことなのかな。
Tag: Career
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