Island Life

2015/10/31

わからないということをわかる

昨日のエントリ『自分ではわからないから、わかる人に助けてもらう』に、ブックマークでこういうコメントがついていて、良い指摘だと思ったのでちょっと発展させます。

叩き台にすらならない翻訳の話と対応するのは、先生がshiroさんの解釈は叩き台にすらならないとしてフィードバックによる改善を拒否することのような気がしないでもないです。

表層的な改善と根本からの改善があるのですよ。 例えば「じゃあこのHarryのせりふをちょっとおどけて言ってみたら?」みたいな サジェスチョンが表層的な改善。でもそういう具体的な表現が改善になってるかどうかは、 流れをより効果的に見せられるかどうかで判断されなければならないんで、 流れが分かってない時点でいくらそういうやりとりをしても無駄なのです。

普通に公開してフィードバックを、ってやると、 そういう表層的な改善の話が集まりがちでしょう? 表層的な改善は表現をいじるだけですが、根本的な改善というのは 自分が変わる必要があります。 表現全体に影響を与えるかもしれない、土台から変えるような変更は、 自分でその必要性を発見できないと、やれないですよ。 他人にこうしなさいと言われてできるようなものではない。

正解ではなくても自分なりに考えていったことで、 ヒントをもらうことで自分で発見できたわけです。 根本からの改善を受け入れるには、 わからないならわからないなりに準備してゆく必要があって、 その準備は自分でやるしかない。 準備してこない人に対しては誰も助けられない。

「叩き台にすらならない翻訳」というのは、 「何も考えてゆかずにただせりふを覚えて演じただけ」に相当します。 昔取ったクラスで、それをやった生徒がいたんだけど、「今回1回だけは許すけど、 次に同じことをするならもうこのクラスに来なくていいから。 皆の時間を無駄にするだけだ」って言われてたな。

厳しいと思いますか? でも、自分が変わる準備をして来なければ、 誰も得をしないんですよ。自分も得をしない。せっかく頑張ってせりふ覚えたり 日本語に移し替えたりして、労力をつぎ込んだけど、その労力はどこにも行かないで 消えるだけです。

叩き台になるレベルかどうか、どうやって自分でわかるかって? わからないところをわからないと自分で認めて、 それでも自分なりに出来るところまで考えておく、 それが出来てれば十分叩き台になりますよ。

でも誰でも最初は、「自分がわからない、ということがわからない」んです。 だから、出来れば信頼している人に見てもらって、「お前はわかってない!」と一喝されて、 「そうか!俺はわかってなかったんだ!」と腹の底から納得できたら、 次から「わからない、ということがわかる」ようになります。 まあ実際はこれにも複数のレイヤがあって、レイヤを突破する度に何度も 「ああ、わかってなかったんだ!」があるんだけど。

わからない、ということがわかってない状態では、 他人にはそれ以上のアドバイスは出来ないですよ。

Tag: 表現

2015/10/30

自分ではわからないから、わかる人に助けてもらう

ということを 「腐った翻訳」についてで書いたんだけど、 頭にあったのは先日のアクティングクラスでの一幕である。

課題のシーンをやっていったのだけど、 自分でシーン分析していてどうもうまくつながらないところがあった。 で、シーンを演じるセッション中に先生とのやりとりで「あ!そうだったのか!そりゃそうだ!」という 瞬間があって綺麗につながったんだけど、 クラスの後で先生に質問した。

  • 私: 今日の私のシーンのあのせりふ、自分一人で分析してた時はどうしてもしっくりこなくて、 先生のあのヒントではっきり分かったんですが、 これがクラスではなく、実際の現場だったらどうしたら良いでしょう? 自力で出来るだけ準備するとして、 でもこの解釈はまだ違うということを自力で分かるには、 どうしたら良いんでしょう。
  • 先生: 最終的には自分のgut feelingを信じるしかない。 けれども、自分だけでやるのはとても難しい。 だから、どんなに実力のある有名役者でも、オーディション前や撮影前にアクティングコーチを頼むんだ。 自分が見落としていたものを指摘してもらえる。

* * *

表面的に「ここをこう直せ」と言われてただ直すんじゃなくて、 もっと根本的なところで自分に見えなかったことを指摘されて、 目から鱗が落ちる瞬間というのは、とてもエキサイティングだ。 一気に新しい世界が広がる。 そのためには、わからないということを自分でわかっていて、 その点についての指摘にオープンでありさえすれば良い。

* * *

課題のシーンは "Something's gotta give" (邦題は『恋愛適齢期』だったっけ?) の ワンシーン。主人公Harryは若い女の子をとっかえひっかえしてNYのポップカルチャー界隈で 華やかな生活を送ってるけど寄る年波には勝てない。ある若い子とビーチハウスでデート しようとした矢先にその子の母親Erica(劇作家、離婚済みで独身)と鉢合わせ、さらに心臓発作を 起こしてしまい、そのビーチハウスでしばらくEricaと過ごすことに、何やかんやでEricaと いい感じになるんだけど、快復してビジネスに復帰した矢先、 レストランで別の若い子とデートしてるところをEricaに見られて、 ちょっと修羅場。Ericaはレストランを飛び出し、Harryが後を追う。 追いついた後の会話が課題のシーン。冒頭近くにこんなやりとりがある。

                     HARRY
        Come on, it's just a dinner ...

                     ERICA
        Look, Harry, here's the problem.  I
        really like you.

                     HARRY
        I really like you.

                     ERICA
        Yeah, but I love you like you.
               (that stops him)
        I do.  I love you.

Harry swoons and not in a good way.

                     HARRY
        I think maybe you should consider
        that you're in love with the idea
        of being in love.

わからなかったのはHarryの"I think..."のせりふ。

もちろん英文単独での意味はわかる。でもその文脈がわからない。 というのも、Harryは最終的にEricaに好きになってもらいたいわけで、 そしたら直前でEricaは率直にI love youって言ってくれたわけだ。 欲しいものが手に入ったのに、なんでそれを否定するようなことを言う?

自力で考えて持っていったのは、HarryはEricaとくっつきたいが、 そういう真剣な関係を持つことはこれまでの華やかな生活を手放すことになるから、 それを怖れている。なので直球で来られると思わず避けてしまった、という解釈。

でもそれだと、この後のシーンの流れとうまくつながらないのだ。以降、クラスでのやりとり:

  • 先生: "What are you doing in this line? Why did you say this?"
  • 私: "Yeah, this line is actually... I did't quite understand emotionally. Intellectually, I've analyzed that I'm deflecting here, for I'm afraid of committing."
  • 先生: "I don't think deflecting is working. What do you want?"
  • 私: "Love. Forgiveness. Yeah, that bothers me. I want love, and she just gave me love. She said it straight. Why do I deflect?"
  • 先生: "Right. And if you get what you want, the scene ends here. The movie ends here and the audience will demand refund. So you can't get what you want here yet. By the way, you are doing very well in other part of the scene..."
  • 私: "Oh, well, I'm not sure ..."
  • 先生: "There! What are you doing right now? If somebody compliment you, what would you do? I think it's also typical in Japanese culture."
  • 私: "Being humble? Hiding pleasure? Ah,..."
  • 先生: "Whatever it is, you're on the right track. Why would you do that in this circumstance?"
  • 私: "Because I want more. It's not enough. Aha, that makes perfect sense."

* * *

もしこの脚本を自分が翻訳するとしたら、この部分はどう訳していただろう。 もちろんこういう「解釈」を陽に出してしまうのは、原著者の意図にも反するだろう。 直接言わないからより効果的であること、というのはよくある。 でも、この「流れ」を意識するかしないかは、些細な訳語の選択や語尾の言い回しに 微妙に影響を与え得ると思う。このせりふだけでなく、シーン全体に渡って。

翻訳者は自身の解釈を一切挟むべきでない、という態度にも一理ある。 けれど、英語と日本語では情報を担うレイヤが異なる。 日本語の一人称代名詞には英語よりはるかに多くの情報を載せられる。 英語には日本語の訳語を当てはめるとほぼ同じになってしまうのに、 微妙に異なるニュアンスを持つ動詞がたくさんある。 単語や文レベルで欠落してしまう情報を補うには、 翻訳においてもなるべく原文と同じ大きな「流れ」を作り出せるような方針で 言葉を選んで行くしかない。表面的な言葉だけにこだわると、 原文の流れは欠落した情報によってぶつ切りになって、 何を言いたいかよくわからない訳文になってしまう。

(なお、戯曲や脚本は多くのレイヤが緻密に組み合わさっていて、 詩に次いでもっとも翻訳が難しい形式だと思う。戯曲は自分には訳せる気がしない。)

* * *

こう考えると翻訳というのはとんでもなく難しい話で、 うかつに手を出せないと思ってしまうかもしれない。

でも、演奏だろうが演技だろうが何だって、考え出せばどれもとんでもなく難しい話なのだ。 しかも、やればやるほどかえって難しさがわかってくる。 だからこそ面白いんだと思う。 最初から完璧に出来る人などいない。そもそもトップのプロだって 完璧に出来るとは思っていないだろう。毎回毎回、自分に出来る範囲をやりきるしかない。

それでも、今はまだ見えてない扉がある、ということを知っておいて、 その扉を開けるきっかけを受け取れるようにオープンであること、 そしてきっかけが来たときに開けられるよう準備しておくこと、 それが楽しむコツじゃないかな。


(今回のクラスの先生はやさしいんだけど、厳しい先生もいる。その先生が言ったとても重要なことが、 "Don't take it personally" だ。今回の翻訳に関する議論で言葉が強すぎると感じた人は参照して欲しい。)

Tags: 翻訳, 芝居, 表現

2015/10/30

「腐った翻訳」について

3行まとめ

  • 叩き台にするにしても最低限クリアすべきレベルがある
  • 原文をすらすら読んで構造を理解できないなら、自分の訳文のレベルを判断できない
  • それなら分かる人に判断してもらってクリアするまで何度でもやり直せばいい

SICPについて、既存のフリーの翻訳の質に満足できず、全面的に訳し直した方がいる。

ケチをつけるだけでなく実際に高い質でやりきったのが素晴らしい。パチパチ。

さて、一方で、元の訳を「腐った翻訳」「そびえたつクソの山」等と評していることについて、 これから趣味で翻訳して公開してみようかなと思う人を萎縮させてしまうのではないか、 という懸念を持つ人も少なからずいるようだ。

その辺については次の文章で説明されている:

のだけれど、反応を見ているとこの説明でも受け取り方にすれ違いがあるように感じられる。 そこで、takeda25さんの説明で十分な人には繰り返しになるかもしれないけれど、 ちょっとポジティブなスピンをかけることを試みてみる。 なお、以降で議論する翻訳の質については今回話題になったものの元の訳を特定的に 指しているのではなく、一般的な話である。

フィードバックによる改善

一番誤解されてるなあ、と思うのは、「下手でも何でもまず公開して、フィードバックを受けて 改善していけばいいじゃない」という反応だ。これは話の前提が完全にずれているので、 まずそこを合わせておきたい。

改善して行く叩き台になり得る最低限のクオリティ、というのが存在する。 そこに達していない場合、公開して皆で少しづつ直して行くというのはうまくいかないのだ。

フィードバックによる改善ループが動く条件は、 各フィードバックの独立性が高く、インクリメンタルな変更になっていることだ。 つまり、そのフィードバックを反映することで他に大きな影響を与えることがなく、 またそれが全体の文脈に照らして良くなっていることが明白であるようなもの、 そういうフィードバックならば、寄せられれば寄せられるだけ訳文は良くなってゆく。

ところで文章には構造があり、流れがある。これは多層になっていて、 本一冊として見た場合の構造と流れがあり、その文脈で各章内の構造と流れがあり、 各節内、パラグラフ内、文内の流れが順にその上に載っている。

文章の中で使われている言葉は全て同じ重みを持っているわけではない。 構造の要とか、流れの方向性を決定する言葉の重要性は高い。その言葉の選択を誤ると 流れが不明確になって全体の論旨が曖昧になる。一方そうでない部分の言葉は、 多少入れ替えても全体の構造への影響は軽微で、表面的な印象をどうしたいかという 好みの問題が大きくなる。

訳語がふさわしいかどうかという議論も同様で、要となる部分の訳語の選択が 正しいかどうかとか、直訳に寄せるべきか意訳すべきかというのは、 全体の構造をどう見せたいかという大きな文脈に依存する。つまりグローバルな影響がある。 要でない部分については周辺の文脈だけ見て検討すれば良い。

元の訳文から、 全体の流れをどのように把握してその構造を反映させようとしているかが見て取れるなら、 ある箇所の修正がどこまで影響するかを見積りやすいし、 どちらの方向に修正すればそれが改善になるかも見極められる。 そういう訳文ならオープンソース的フィードバックによる改善はうまくゆく。

けれども、元訳者が文脈を把握してない(ように見える)訳文の場合、 個々の文レベルでのフィードバックは無意味なのだ。 デッサンが狂ってて表現技法も統一性のない人物画で、髪の毛の表現方法をあれこれ指摘するようなものだ。 その箇所だけをローカルに見て表面的なつじつまを合わせられたとしても、 その修正が全体に照らしてどういう意味を持って、本当に改善になっているかが判断できない。 直すとしたら、根本的な方針の確認から始めて全体をいじるしかない。

これは、個々の訳文を取り出して修正してみせても、なかなか伝わらないことでもある。 個々の訳文を切り出した時点で文脈が無くなるので、その修正が単なる表面的な ものなのか、全体の流れに重大な影響を与えるのかがわからないからだ。

自分の不得意な分野で何かアウトプットを出すことを 想像してみれば、誰だってそういうレベルの出力を作り得るというのはわかるだろう。

ただ、そういうレベルのものを晒してはいけない、と一概には言えない。 誰でも最初はそこから始めて、徐々に良くなるのだから。

翻訳にまつわる議論は、単にレベルが低すぎるから叩く、ということじゃないんだ。

翻訳特有の事情

初めて描いたイラストだとか、楽器を始めて1週間で演奏してみた、なんて作品は 上手下手で言えばド下手だろうけれど、 それでも公に表現するということはとても良い行為だと思う。 上手下手とは別に伝わるものがあるし、同じ段階の人の励みにもなる。

ところが、翻訳に関しては極めて特殊な事情がある。

翻訳の対象読者は、その翻訳のレベルを判断できない。

翻訳のレベルを判断できるのは、原文を読んですらすらと構造を把握して 流れを見て取れる人だが、そういう人はわざわざ翻訳を読まない。 またその系として、訳者が「翻訳より原文を読む方がいい」というのでなければ、 訳者自身もまた自分の訳のレベルを判断できない。

他の多くの表現形態では、特に詳しくない人でもレベルのスケールの低い方は見分けがつく (詳しくないとある程度以上のレベルの見分けがつかなくなる、というのはあるけれど)。 ところが翻訳については、原語と訳語の両方に詳しくない人には、 どのレベルにあるか全く判断できないのだ。

下手でも頑張って演奏している動画を見たとき、人は「何を見れば良いか」をわかる。 この段階なら個々のミスタッチを気にするより全体として伝わってくるものを見るべきだな、等。 そして、フィードバックをするなら、細かな指摘よりも大きな部分で改善できるような コメントをしよう、と思うだろう。

でも読者のほとんどが下手かどうかも判断できないなら、 フィードバックの多くはランダムな、枝葉末節の指摘になるだろう。 そして訳者自身も、そのフィードバックが本当に役に立つのか立たないのかわからないだろう。

これでは同じ場所を彷徨うだけで、何も良くならない。

じゃあどうすればいい?

でも、下手糞は公開するなって言いたいわけじゃないんだ。 どんなレベルであれ、最後まで終わらせること、そして公開すること、それ自体から 自分が学べることはたくさんある。

ただ、公開しても役に立たないことがあるという事実は厳然としてある。 「無いよりはあった方がマシ」などと誤魔化すのはやめよう。

じゃあどうすればいい? ひとつ提案がある。

自分には判断できないという事実を受け入れるなら、 確実に判断できる人(=原文を抵抗なく読める人)に見てもらえばいい。 公開の場で腐った翻訳と言われるのがおっかなければ、 公開前に目を通してもらえばいい。

プロの翻訳家や文筆家だって、自分の作品を世に出す前に、信頼できる他人に 目を通してもらうのだ。アマチュアがそうすることをためらう必要はない。

そしてその人に、根本からやり直さないとだめだ、と判断されたなら、 謙虚にそれを聞いて何度でもやり直せばいい。

そう判断されることは、自分の人格が否定されることでもないし、努力が無駄になることでもない。 むしろ、わかる人に判断を仰げるだけのアウトプットは出した、ということを意味するのだから、 それは立派な成果だ。

その成果があったから、スタートラインに立てたのだ。

自分の勉強のためにせよ、翻訳を望んでいる皆のためにせよ、 当初翻訳に手をつけた動機を完遂するためには、そのスタートラインから踏み出さないとならない。 せっかくそこまで来たのに、やることはやった、後はみんなで直してね、 と受け身になってしまうのはあまりに惜しいではないか。

自分の訳文のクオリティが、フィードバックによる改善のスパイラルを得られるのに 達しているのか判断できない、でも公開してマサカリが飛んでくるのが怖い、という人は、 「こんなん訳してみたんだけど、公開して役に立つかどうか、 誰か原文わかる人、目を通してみてくれませんか」と募集してみたらどうだろう。

(なお、自分で判断するためには以前翻訳のセルフチェックというのも書いた。)

派生したエントリ:

Tags: 翻訳, 英語

2015/10/09

"Do not give other actors notes"

ハワイ大学でKeo Woolford氏による演技のクラスを取りはじめた。

「このクラスでのルール」として初回に提示された項目の中に、 "Do not give other actors notes" があった。give notesは日本でいう ダメ出しのことで、「他の役者にダメを出してはいけない」、あるいは 「役者同士でダメ出ししてはいけない」って感じだろうか。 Keoはあくまで「このクラスでは」と限定していたけれど、 このルールはクラスだけでなく実際の芝居の稽古や撮影の現場でも常識っぽい。

ニュアンスがちょっと微妙なんだけれども、役者同士でアイディアを出し合って、 何か作っていって演出に見せる、というのは全く問題がない。 ダメなのは「こうした方が良いよ」みたいに価値判断を入れたり、 「こうしてくれると自分がやりやすいんだけど」と注文をつけること。

ベースにあるのは、ある選択が良いかどうかを決めるのは演出の仕事であるという 線引きだろう。役者は材料をいくらでも提供できるけれど、全体のバランスを見て 決めるのは演出。また、役者はあらゆる所作について考え抜いて演出に持ってゆくものを 選んでいるはずなので、相手役に注文をつけるということは演出を差し置いて その役者の選択について判断をしちゃってることになる。

(ある時、私が出演している舞台に観客として観に来てくれた知り合いの演出家に、 何かアドバイス無い?と聞いたら「公演期間中に部外者はそういうことを役者には直接言わないものよ」と 言っていた。何かあるならその舞台の演出に言う、ということだろう。 ああ、判断を尊重するというのはそういうことか、と思った。)

日本での経験は学生劇団とその延長の社会人劇団だけで、その中では 「演出の仕事」「役者の仕事」という線引きをあまり意識してなかったように思う。 そのノリで役者友達の芝居を観に行って批評を求められると何やかんや注文つけてた 覚えもあるが、今思えば随分と思い上がったことをしていたのだな。

日本での現場の慣習がどうなのかについては十分な知識を持たないんだけれど、 いつも一緒にやっている劇団だとか、あるいはかつての映画制作会社のように 気心のしれた監督と主要役者のチームであれば、判断基準がある程度統一されているため、 こういうことにあまりシビアでないかもしれないな、という気はする。 というのも、今、『役者は一日にしてならず』という ベテラン役者さん達のインタビュー集を読んでて、 そこにしばしば現場で役者同士稽古をつける、みたいな話が出てくるので。 その前に『Actors at Work』という、 こちらはハリウッドやブロードウェイで活躍する役者さん達のインタビュー集を読んだのだけど、 現場で他の役者から教わった、という話は無かったように思う。

この2冊については、日米の業界事情の違いも見えて面白いのだけど、 それについては改めて整理して書いてみたい。

Tag: 芝居

2015/10/08

「台詞が母国語ではない、というのは有用な道具なんだ。それをobstacleとして使えば、『言いたくても言えないもどかしさ』というconflictを素直に表現できる」

(ハワイ大学での演技クラスにて)

Tag: 芝居

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