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2010/11/16

オーディオブックとオーラルコミュニケーション

今朝、NPRのMorning Editionを聴いていたら オーディオブックの話題が出ていた。 米国ではオーディオブックはポピュラーで、ベストセラーになるような本なら 大抵オーディオ版も発売される。 私もキングのオーディオ版はいくつか買って読んだ(聴いた)ことがある。 キングの場合、当初オーディオ版しか発売しないやつもあったし ("Blood and smoke" とか)。

市場もそれなりの大きさになるので、有名な役者が読むこともある (Keith Richardsの自伝『Life』はJohnny Deppが読んでるとか)。 これまたキングの作品中には主人公がオーディオブック向け朗読を専業でやってゆくって描写も出てきたりする。

で、オーディオブックが日本に比べて米国で一般的な理由は、車での移動が多いからだと 思っていた。他の国のことは良く知らないけれど、米国だと日常の通勤だけでなく、 丸一日から何日もかけて車で移動したりする機会もそれなりにあって、 そういう場合に耳からインプットできる大量の何か、に対する需要というのは 高いだろうと思う。

でも今日NPRを聴きながら、別の要素もあるかもしれないと思った。

これまた他の国のことは知らないので日米間だけの比較になるけれど、 米国人はとにかく電話で何でも済ませる。窓口までわざわざ出向いても、 辺鄙なところだと窓口の人に権限が無くて、「ここの電話から コールセンターにかけて手続きしてくれ」なんて言われることもあり、 電話越しの英語に慣れるまでは苦労した。 いろんな手続きがわざわざ出向かないでも出来るっていうのは 確かに便利ではある。銀行の振込みだって電話で出来てしまうのだ。 まあ最近はネットが使えるようになったから電話の優位性は下がってるけど。

この、何でも電話っていうのは、やっぱり以前は、国土が広いからだと思ってた。 都市部ならともかく近くの銀行の支店まで100マイルなんてとこに住んでたら いちいち出向くのは大変だ。

けど、オーディオブックと「何でも電話」と合わせて考えると、 言語的、あるいは文化的にオーラルコミュニケーションの比重が(日本に比べて) 高いっていうことがあるのもしれないと思ったのだ。

仕事の話でも、ちょっと込み入ってくると「じゃあカンファレンスコールしよう」 ってなることがとても多い。メールの方が記録に残るから私は好きなんだけど。 ちなみに同じビルディングで仕事しててちょっと廊下を歩けば直接話せるって 場合でも電話で済ませることが多いので、やっぱり対面と音声の比重が 日本に比べて音声の方に傾いている気がする。

声により多くの情報を載せている、と言うこともできるかもしれない。 これも関連してるのかどうかわからないけれど、オーディションとか 稽古中にディレクターが「じゃあちょっとNYCアクセントでやってみて」とか 「南部アクセントでやってみて」なんて注文を普通に出して、それをまた 普通にやっちゃう役者が多いのにびっくりする。私はもちろん日本語訛りしか できないけど。(あ、『Mainland Education』の時は「台湾訛り」を 指示されたっけ。) 実際、アクセントはそのキャラクタの背景を示唆する重要な情報になる。

声優という職業が日本では成立していて米国にはないのも何か関係があるかもしれない。 声にあまり情報を載せないのが日本の文化であるとすれば、 声だけでの演技が普通の芝居とは別のものとして発展したとしても不思議はない。

他の国や言語圏ではどうなんだろう。

ちなみに私が聴いたキングのオーディオブックで特に良かったのはこの二つ。 キングの文体と語り口が良くマッチしていて、より想像力を刺激される。

Tags: 芝居, 生活

Past comment(s)

knsmr (2010/11/19 07:49:46):

アジア圏では書き言葉としての中国語(漢文)が公式な仕事上の言語で、その発音は中国国内ですらバラバラ。日韓ベトナムも入れると、仕事の言語とはつまり書き文字だった、ということってないでしょうか。アジアでは書き言葉がエラい。日本ではphonetic alphabetであるカナは仮りの名などと呼ばれて長らく蔑まれ、韓国も自分たちの文字を作ったのはかなり遅かったですよね(反動なのか、漢字を一時捨てたようですが)。

ヨーロッパはラテン語時代は別として、どこでも音は似たような感じ。文字に落とすとむしろアクセント記号がついてバリエーションができると状況が逆。喋れば分かるんだし、喋ろうよ、みたいな。

素人の思いつきですが。

shiro (2010/11/19 19:27:22):

なるほど、書き言葉と口語の距離や比重の違いはありそうです。英語はヨーロッパ諸言語の中でも綴りと発音の対応が取れてないって言われるけれど、日本語の漢字仮名交じり文に比べたらどうってことないし。シェークスピアは今でも当然のごとく原文のまま上演されて、普通の観客にも受け入れられるけれど(クレア・デーンスとディカプリオの映画版ロミジュリもせりふは結構原文に近かった覚えが)、近松の浄瑠璃を原文のままやっても観客が限定されてしまうでしょうね。

ただ、落語や講談のように音声言語を用いたエンターテインメントってのは少なくともちょっと時代を遡ればポピュラーであったように思うんですが、そういう流れっていうのはどこにつながってるんだろう。漫才は今でも人気あると思うけれど、テレビと切り離して音声だけで成立するようなものになってるのかな。

knsmr (2010/11/22 01:15:49):

ちょっとご指摘の文脈とは違うかもしれませんが、近松とシェークスピアの話。近松は原文でも結構読めたような気がします。私が関西ネイティブだからそう思うのかもしれませんが。むしろシェークスピアの中世英語は厳しくないのでしょうか? シェークスピアに対する欧米人の「ありがたがり気味」は、ちょっとペダンティックな匂いがします。これはエドワード・サピアという言語学者が言ってたことですが、言語芸術には翻訳可能なものとそうでないものがあって、この2つは分けて論じたほうが良いというんですね。漢詩の五言絶句なんかは当然ほかの言語に写し取ると音韻の制約が分からなくなるので翻訳不可能だけれども、シェークスピアのように人間の本質を描いたものは音韻や言い回しそのものは言語に依存しないだろうというのですね。なので、なぜシェークスピアをわざわざ原文でやるかというと、理由の1つは「原文の良さが失われる」というペダンディズムに支えられた原文至上主義があるのじゃないかと思えます。これは個人的には裸の王様じゃないのかなと思ったりします。もう1つは日本の時代劇なら「せっしゃ」「ござる」みたいな「役割語」としての言い回しに非日常を感じるということかなと思います。その時代に本当に使われていた言葉であるかどうかはどうでも良くて、そういう言葉を聞くと多くの母語話者が「むかし」を想起するもの、という側面のことで、これは米語だとブリティッシュアクセントを強めるに従って独立戦争時代に近い雰囲気になるということってありますよね。あるいは、天国や地獄からの使者はだいたいブリティッシュです。呪文も現代米語では雰囲気がでませんよね。耳慣れない古めかしい言葉って、非日常の世界を表現するのに適していて、聖書もそうですよね。聖書は日本語でも現代語訳でやればいいのに、古い訳をありがたがる風潮ってあるような気がしています。英語の仮定法で語形として過去形を使うのは「現実との距離感を示している」という話がありますが、古めかしい言い方も、非日常度を示すための表現なのかな、と思います。それにしてもシェークスピアの中世英語を原文で上演するなんて、なんだかアサッテな感じの、衒ったシェークスピアの楽しみかたという感じがしなくもないです。近松も、現代関西弁に古い言い方を足すぐらいがちょうどいいのじゃないかと思います。近松の女殺油地獄という1992年の映画は、そんな感じですごくよかった記憶があります。これも私が大阪弁ネイティブだから、脳髄にセリフが届いた可能性も大きいですが。

インターネットで音声言語による文化や芸術が再び注目されるかと考えると、なさそうな感じがしますよね。

shiro (2010/11/22 03:17:42):

なるほど。近松は原文でちゃんと読んだことがないのですが、読めますか。女殺油地獄はうんと昔に舞台で見たことがあるんですが、誰の舞台だったかなあ。せりふは(少なくとも多少は)現代風に直してあったと思います。

シェークスピアについては、昔は私も謎に思っていたんですが、実際にせりふを喋ってみるとリズムが良いんですね。日本でも講談とか、演説口調とか、音声オンリーでたくさんの情報を伝える時は相応のフォーマットがありますから、そういう方向で最適化されてきた形式ではあるのでしょう。もっとも現代ではなるべく韻律を表に出さないようにしますが(ある先生曰く「リズムが心地よすぎて内容を気に留めず流してしまうから」)。

原文至上主義の空気はあるのかな。もっとも、少なくともアメリカの、私が体験したところでは、脚本原理主義とまではいかないけれど、脚本をとても重く見る感じはあって、どこまでが脚本原理主義でどこまでが歴史的なものをありがたがっているのか、よくわからないところがあります。もちろん演出方針によっては大胆な変更もあります (以前、せりふをハワイのピジン英語に置き換えた舞台がありました)。

あと、ざっとwebで見たところ、中世英語は15世紀後半頃までの英語で、シェークスピアの英語は近代英語の初期になるらしいです。中世英語はほとんど別言語ですね。さすがにそれは理解できないと思います。現代語からの地続き具合では、日本では言文一致運動の頃の作品を読んでいる感覚に近いんじゃないでしょうか。

オーラルコミュニケーションの話に少し戻すと、例えばスピーチだとかオーラルなディスカッションの教育における位置づけも日本と米国で差があるように思います。ディベートの話は良く言われますが、それ以外でも教育システムにおける演劇の存在感とか。

knsmr (2010/11/22 06:20:09):

なるほど。シェークスピアはそういえば音で聞いたことがないので、ちょっと分かりません。地続きなのかもしれません。スミマセン、適当なことを言ったかも。教育と演劇が関係あるのですか? 確かに、お芝居の真似事をやるのは普通の人にとって学校ぐらいですが。最近ちょっとした動画がYouTubeなどで共有されますが、このとき、多くの日本人はカメラに登場しないし、しゃべりもしません。仮面をかぶることすらあります。ディスカッション以前に、人前に出て「自分の言葉」としてしゃべることを、必要以上に恐れている気がします。初音ミクの流行をみていても思うのですが、声や言葉(メッセージ)と人格を切り離そうという力が日本語圏のほうが強いように思えます。 何だか話があれこれ飛んでしまいました。コメント、お付き合いくださってありがとうございます。ソフトウェア関連の話もいつも楽しく拝読させていただいております。

shiro (2010/11/22 07:21:56):

教育と演劇: こちらでは中学や高校で演劇の授業が開講されていることがあります。音楽や美術の授業と並ぶ感じですかね。日本ほどカリキュラムが規格化されてないので、予算や教員のavailabilityによってまちまちですが。あと州立大学にはたいていTheatre Departmentがあります。有名な役者でも、中学や高校で受けた演劇の授業がきっかけ、ってのをちょくちょく聞きますね。

shiro (2010/11/22 07:25:10):

初音ミクとの関連はあるとしたらおもしろいな。こちらの友人にミク動画を紹介してもだいたい「ふーん」って感じであんまりうけないんだけれど、わざわざソフトウェアに歌わせないでも自分で歌えばいいやん、て思ってるのかも。

knsmr (2010/11/22 13:26:48):

確かに並べてみると、美術、音楽、演劇とあってもいいかもしれません。やっぱりハリウッドという輸出産業があるから、演劇の地位が相対的に高いとか? ミクは楽譜みたいなもので、歌詞をメロディーとともに伝達するためのツールという解釈があるそうです。歌い手と歌が分離されることで、それぞれの歌い手の解釈や表現力が試されるという。オリジナルの歌手がいないので、歌いまわしで引きづられたりすることもないそうです。この解釈は非常に面白く、テクノロジーとともに芸術の表現形式が変わりうる良い例なのかもしれません。歌手がいなくても歌が流通して、バリエーションを競いあうというのは、歌謡曲という大衆文化の時代には忘れられていたことかもしれません。

kawauso (2010/12/16 01:55:47):

日本語は(音種が少い分同音異義語が多いなど)言語としてオーラルコミュニケーションを不得手としているように思います。英語の他にも例えば中国人が中国語で仕様のやりとりをしているのを聴いているとかなりの情報量が伝わっているように感じます。

shiro (2010/12/16 06:24:06):

ふーむ、おもしろいですね。言語とコミュニケーションのモードの関係についての調査分析とかされてないかなあ。言語の構造からくるのか、文化からくるのかの切り分けは難しそうですが (そもそもはっきり切り分けられるものでもないですが)

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