Island Life

< 私もそう思ってたんだけど | 言語にこだわる場面 >

2010/02/28

翻訳と理解

英文を翻訳する時、私の感覚では、 原文の理解にかかる手間は全体のうちのごく一部で、 ほとんどの労力は理解したことをどう日本語で表現したら良いかを 考えるのに費やされる。 なので、「理解するために翻訳する」というのがあり得るんだろうか、 とずっと疑問に思っていた。 けれどもこの文章に触れて、なるほどと思った。

忙しい週末と翻訳のこと (内田樹の研究室)

私もまた「訳さないとわからない」人間である。
自分じゃない人間の自分とはまったく違う論理の運びや感情の動きに同調するときに、自分の操る日本語そのものを変えるというのは、私にとっていちばん手堅い方法である。
自分が自分のままでいて、それでも「わかる」ものは別に他人の書いた本なんか読まなくてもすでに「わかっている」ことである。
「自分がもうわかっていること」のリストを長くしても私にはあまり面白くない。
自分が自分以外のものに擬似的になってみないとわからないことに私は興味がある。

確かに、「表現してみないと分からないこと」というのがある。 自分の理解を広げるようなことがらはほとんどそうだ。

そのことは、芝居を通じて知っていたはずだった。 演じてみること、つまり戯曲に描かれた関係性に自分の肉体を置き、 自分の声で台詞を発し、自分の耳で相手の台詞を聞くことで、初めてわかる意味というものがある。 良い戯曲であればあるほど、演じている間により多くの発見がある。

同じことが、翻訳という行為でも起きないわけはない。 もちろん、原文の表層的な意味を理解することは一応の前提だろう (文芸的な作品では、形式的には意味をなさない表現があるかもしれないが…) けれども、著者にその表現を選ばせた理由(それは著者自身さえ自覚していなことかもしれない)までをも 理解したいのなら、自分の表現方法でもってテキストを「語り直してみる」ことは かなり有効な方法であると思われる。

以前、アクティングクラスでシェークスピアのモノローグをやってた時に 教わったテクニックの一つは、一度、台詞の内容を自分の言葉で語ってみるというものだった。 それで掴んだ流れを、元のテキストに載せ直す。 実際、それで他の役者が稽古をつけられているのを見てみると、明らかな効果がある。

もし理解について芝居と翻訳のアナロジーが成り立つのであれば、 重要なのは翻訳の結果そのものではない。 アウトプットを出して、出すことで何を感じたか、 そしてフィードバックを受け取って何を感じたかが決定的に重要だ。 それが理解の手がかりになるからだ。 翻訳のドラフトは、手がかりを得るための材料にすぎない。 本当の仕事は、その後に何をするかだ。

Tag: 表現

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