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2005/11/25

k16's note 2005/11/14

信じられないモチベーションといったら、ショスタコービッチもそうだ。 党から創作活動を制限されていたジダーノフ批判以降の約4年間、 ひたすら机の引き出しの肥やしにするために、24のプレリュードとフーガ、 弦楽四重奏第4〜5番、バイオリン協奏曲第1番といった超傑作をこっそり作り続けてたんだから。 [...] 発表することはもちろん、作っていることさえ禁じられている状況なわけで、 「オレを認めて欲しい」という欲求が一切介入しないところで高度な創作活動を続けていたところがすごい。

本当のところがどうだったかは知らないけれど、私はこのエピソードを聞いて、むしろ 「そんな状況であっても、創作を続けずにはいられなかった」と感じる。

ある種の才能は、祝福であると同時に呪いでもある。 Stephen Kingがどっかで「書かずにはいられないから書く」とか 「書かないとおかしくなってしまう」とか言ってたような気がするが、 まさにそうなのだと思う。ヴィジョンがつぎつぎに降りてきて、 創れ創れとけしかける。語弊はあるかもしれないが、 どんどん形にしてゆかないと精神的糞詰まりを起こして (精神的に)生きてゆけなくなるのではないか。 Kingは「ミューズが頭上で下痢している」(嘔吐だったかも)という 表現もどこかで書いてた気がする。 ブレヒトの「ガリレイの生涯」の14幕のガリレイも似たような境遇だ。 教会に蟄居を命じられ、細々と書き綴る"Discorsi"は書く端から 教会に取り上げられる。それでも書かずにはおれない。 それを発表して名をあげたいとか科学に貢献したいとかいう次元を離れているのだ。

困ったことに、この種のヴィジョンを得てしまう能力と、 それを形にする能力は必ずしも一致しない。しばしば両者はともに「才能」と 呼ばれて混同されるが、本来は直交する能力である。 ヴィジョンがあふれてもそれを形にするスキルが ついていかないとおかしくなる。一方、スキルがあって器用に 求められるものを形に出来るが、自分の本当に創りたいものが何か わからずに空虚な思いを抱いている人もいるだろう。 (前者は"gift"、後者は"talent" に該当するのではないか、と ふと思ったが、ちょっと調べた限りではそういったconnotationに 触れられている辞書は見当たらなかった)。

才能は獲得されるものか備わっているものかという論争はあるが、 少なくとも後者の(形にする)才能は獲得されるものだと思う。 才能があり、素晴らしい創作活動を続けている人は両方を最初から 備えていたかのように見えるかもしれない。しかしそれはむしろ、 内なるヴィジョンに子供の頃から気づいていた結果として、 自分が生きのびるために死に物狂いでスキルを獲得したのだと 言えはしないか。たとえ本人は死に物狂いだと思っていなくても、 それは生存のための無意識の行動だったのではないか。

このへんの、才能の残酷さを見事に描いているのが David Morrellの短篇 "Orange Is for Anguish, Blue for Insanity" だ。 (邦訳は「オレンジは苦悩、ブルーは狂気」---アンソロジー「ナイトフライヤー」収録)。 普通の超常現象を扱うホラーとして読んでも面白いが、 もしこれが創作の本質だと考えると、恐ろしい。

Tags: ものつくり, 表現