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2006/12/19

内田樹の研究室: 創造的労働者の悲哀

しかし今、労働は創造となった。
そのせいで仕事をする人々はその定義上、仕事をつうじて絶えず自己実現の愉悦と満足にうちふるえていなければならなくなった。
苛酷な条件である。
絶えず創造し続け、絶えず快楽にうちふるえていなければならないという重圧に耐えかねた創造的労働者たちの中から「自分らしい作品ができないくらいなら・・・」と沈黙と無為の道を選ぶようになる者が出てきても怪しむに足りない。
ニートやフリーターはこの「創造的労働者」の末路である。

「創造」や「芸術」といったものが、相変わらず、ひどく誤解されていることが 不幸の元であるのかもしれない。三木清が言うように、岡本太郎が言うように、 芸術は生活の中にあるものではなかったか。 それは生活を楽しむ技術(三木)であり、自由を取り戻す手段(岡本)ではなかったか。

生活に密着した自分自身のこととしてではなく、人が創るものを端から眺める だけで創造やら芸術やらをとらえていると、 ユニークでなければならないとか、人と違っていなければならないといった ことばかりに目が行く。でもそれは「結果としてそうなることもある」という だけのことで、そこばかり見るのは順序が逆だ。 繰り返す日常自体を楽しむ技術を見出した時、結果として日常が他人から見て ユニークになるのだ。

これは「個性」にまつわるアンビバレンツとも関連している。 社会的には人と同じであるべきという強烈な暗黙のプレッシャーがあるくせに、 建前では「個性を伸ばす教育」などと言っている。 個性というのはもうどうしようもなくそこに有ってしまうもの、 逃れようもない自分自身のことで、伸ばすとか育てるとかいうものではない。 抑えたり制御したりすることしかできない。 (昔、同じことを書いたことがあるが、子供を持ってみて改めてそう思った)。 全く抑えないと社会として収拾がつかなくなるから、 学校で個性を適度に抑える技術を学ばせるのは間違ったことではない。 でも今は、個性を徹底的に抑え込むせいで、「個性的」という言葉さえ いくつかの類型的なモデルを指す言葉になってしまったきらいがある。

自分ではない、メディア等で流布される特定の人物の生活を、それこそが クリエイティブで個性的な生活だと勘違いしていれば、そりゃ 自分自身が「創造的」「個性的」に生きるのは難しかろう。 他人の人生を生きようとしてるわけだから。

* * *

もっとも、労働者を取り替え可能な部品として扱った方が 収益が見込めるという構造があった場合、経営者側が それを利用するというダークサイドに堕ちることは十分にあり得る。 そのような職場で生活を楽しむのはとても難しいだろう。 「自由を取り戻される」ことは経営者側にとっては不都合だから、 そうさせないような有形無形のプレッシャーがあるはず。

「とにかく働け」と言うことの問題は、そういう環境で しゃにむに働いた場合、自己実現どころか利用されるだけに なりかねないことだ。1世代以上前ならどこも似たようなものだったので その場で闘うことが自由への道だったのだろうけれど、 仕事が多様化した今となってはその場を去るって選択肢も ありだと思う。

でも一方で、どんなに「自分に合った」仕事であっても、日常で やっていることの95%は泥臭い、本質とは一見関係無いような 作業であるのが普通で、表面的な作業の無意味さだけを見ていると その仕事の「おもしろさ」を見損なう危険がある。で、 そういうことを嗅ぎわけるには、やっぱり「とにかく働いてみる」 経験が必要だったりする。

Tag: Career