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2010/11/18

表現と演技

ちょっと引用が長くなっちゃうけど、いいことが書いてあるだけに 「自分定義」な用語についてひっかかった。

kawagucci's Weblog経由で 『大竹しのぶはなぜ食わず嫌い王で勝てないのか』

ここで、私が「表現」というのは、 内にある想いを外に出して通じさせる行為だ。

芝居で言えば、 自分の中にある、 悲哀・憎しみなどの想いを、 表情・声色・身振り・手振り・行動などで表して、 見えるカタチにして外に通じさせる。

一方で、私がここでつかう「演技」の定義は、 あくまで自分だけの定義だが、

実際そうではないのに、 技術を駆使して、見る人に、 本当にそうであるかのようなふりをして見せる行為だ。

「表現」する場合、

まず、自分の中に、本当に悲しみの気持ちを しっかりつくる必要がある。 自分の中にないものは、表現できないからだ。

生きていれば、喜怒哀楽、善意・悪意、美・醜、 いろんな気持ちを体験してきているはずだ。

そこで、 自分の経験・記憶の引き出し・想像力も総動員して、 自分の中の、どっかなにかから悲しみを引き出してきて、 生で、リアルな、悲しみの気持ちを 自分のなかに湧き起こす。

一方、「演技」をする場合。

ほんとうに悲しむ必要はない。 悲しいふりをすればいいのだ。 ただし、見る人に説得力があると思わせるレベルまで。

そのレベルに達するには、 高い技術・能力・計算が要る。

日ごろから 人は悲しいときどんな表情や態度をとるのか、 見聞をひろめ、研究し、 「肩を落とすんだな」とか、「目はうつろにする」とか、 「泣き声は張り上げるより抑えたほうが、より悲しく映る」 とか、試行錯誤を積み重ね、技術を磨いて、 いざとなったら、さっと説得力ある演技が できるようにする。

「演技」にいろいろな定義はあるだろうけれど、 芝居で使う場合には上のような使い分けはしない。

上で書いてある「表現」と「演技」は、 どちらも演技のアプローチとして認知された方法だ。 前者の手法を "inside-out"、後者の手法を "outside-in" と呼ぶ。 メソッドアクティングはinside-outの手法のひとつで、 引用で説明されてる「表現」もメソッドアクティングに近い。 マイズナーもinside-outだけれど、自分の中に特定の気持ちを作ることよりも、 その場の状況に自然に反応して出てきたものは何であれ正解である、という 立場か。

outside-inの手法は引用で説明されてる「演技」のように形から 入るんだけれど、「ふり」に止まらず最終的には内面につなげるところまでやる。 説得力十分なほどの悲しいふりをしていたら、実際に悲しくなる (あるいは、他の何かしらの感情が出てくる)ので、それをまた外面へと フィードバックするってこと。

スタニスラフスキーには両方出てきたと思う。 メソッドの影響でinside-outの方が強調されがちな印象もあるけれど、 私の知る演技の先生は皆「どちらもやって、自分に合うやり方を採用すればいい」って スタンスだ。というのは、実際、役者によってどういう手法でうまく ゆくかはバラバラなのだ。メソッドだって評価が両極端に分かれがちなのは、 それで素晴らしくうまくゆく役者もいれば、全くうまくいかない役者もいるから。 手法だけを取り上げて優劣を論じることはできないのだ。 大事なのは、特定の役者が、特定の手法を使って「良い演技」ができるかどうかってこと。

あと、引用元の文章の中では「技術」という言葉を後者の手法に 寄せて使っている感じなのだけれど、inside-outの演技にだって技術はある。 上のふたつの手法の対立は「自然」vs「技術」っていうことではない。 内面を「自然」に溢れさせるのにも「技術」が必要なのだ。 (より正確には、マイズナーのクラスの先生の言葉を借りれば、 「技術なんて無くても自然に出ちゃうならそれに越したことはないけれど、 芝居続けてれば自然に出てこない時ってのは必ずあるし、 その時の助けとして技術はとても役に立つ」ってところか)。

キャリアの最初から最後まで、全て自然体で表現できる天才はいるのかもしれないが、 他の多くの人にとって、常により良い表現、新しい表現を目指してゆけば乗り越える壁が 次々と現れるはずで、それを乗り越える工夫ひとつひとつが「技術」であるはずだ。 その技術の中にはinside-outの手法もあればoutside-inの手法もあり得るだろう。

内面の表現を重視するのはいいけど、それが技術と対立して語られると 技術軽視につながりそうなので残念。 自分の内面を「自然に表現している」ように見える表現者も、 きっとその人なりの技術を死に物狂いで磨いているはずだと思うから。 (本人は「楽しんでやっている」と思ってるかもしれないけど)。

Tags: 芝居, 表現

Past comment(s)

hirabayashi (2011/01/13 09:40:04):

 ”「最弱王」の異名をとる”というあたり、番組演出における”キャラクター設定”であるようにも思えるのですが、実際のところは、どうなんでしょうか・・・  大竹しのぶは、演出上のキャラクターを演じているだけだったりもしそうな・・・。

shiro (2011/01/14 10:50:48):

さて、その番組自体は観たことないのでわからないです。でもキャラクタが設定されてたとしても、それにアプローチするのに自分の中からつなげる方法も外から作る方法もあるってことなので、特にここでの論点は変わらないような気も。

hirabayashi (2011/01/14 11:21:05):

 はい、ここでの論点へのコメントではなく、むしろ、リンク先エントリへのコメントとする方が適切かと思っています。

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