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2011/04/27

理解と表現

先日の「グラフ指向理解」へのakaさんのコメント:

私自身は、表現と意味のプロセス境界は曖昧な気がします。話言葉にしても書き言葉にしても自分が発した言葉(単語)から逐次フィードバックがかかり、文を作り進むなかで自分の中で意味も形成というか形式を与えることにより意味の存在が特定される感触があります。

[...]

翻訳する場合、文から文に訳すというある種の直訳ではなく、意味を経由する感触はあります。しかしその経由するところの意味とは、量子が如く不確定であり、ある言語で文にするという観測による特定が再度なされる感触があります。

私も、言語にする以前に明確な概念が頭の中にきちんと存在するって主張してるわけじゃなくて、 というか明確に輪郭が定義できるものがあるなら、その定義が広い意味での「言葉」 になってしまうわけで (自然言語に限らず、芸術表現なども含んだ具体的な表現という意味で)、 表現してフィードバックをかけながらだんだん輪郭をはっきりさせてゆくというプロセスは 深い理解とは不可分なものだと思う。 (以前、「創作の目的」で似たようなことを書いた)

外から観測できるのは表現されたものだけなので、もしかすると脳内の概念というのは 表現を作る過程での一時的な状態にすぎないのかもしれない。 でも、曖昧であるにもかかわらず実在感を伴って自分の中に感じられる「何か」というのは あるんだよなあ。

例えば脚本を読み込んですとんと「分かった」時に出来る「何か」。 それは言葉で直接表現できるものではなく、 だから形を与えるには演じてみるしかないわけだ。 言葉だけで表現が済んでしまうならわざわざ芝居にする意味はないからね。 自分の肉体を通してみて、 そこで感じたことをフィードバックすることでだんだん輪郭がはっきりしてくる。

この時、わからないでもただがむしゃらに色々演じてみているうちに 突然目の前が開けたように「分かる」こともあるんだけれど、それを期待するのは効率が悪くて、 やっぱりストーリー分析、シーン分析から個々のせりふの言葉の選び方まで 多層的な構造をとらえた「暫定的な理解」を腹に収めていろいろ準備した上で演じてみる方が はるかに速く輪郭を収束させられる。

翻訳も、入力と出力が書き言葉による表現だというだけで、プロセスはほとんど同じだと思う。 輪郭をはっきりさせる、つまり深い理解をするには出力してみることが必要で、 そのために仮訳を作ってみるというのはありだと思うし、 その厳密な直訳もそのステップとして使えるかもしれない。 でも高次の構造をすっとばしてがむしゃらに訳してみるってのはやっぱり効率が悪いし、 満足のゆくものに到達できる可能性も低くなるんではないか。 創作手段は人それぞれなので、厳密な直訳によって構造を明確にできるならそれで構わないけど。

個人的には、今、ピアノでちょうどそういう壁に当たってる感じがしてる。 高次の構造が見えてなくて、ひととおり音符が追えるようになった後 どっちに進んだらいいのかわからなくてぐるぐる回ってる感じ。 これは、直訳を作ってはみたれれどそこからどう直したらいいのかわからないっていう 状況と似てるんじゃないかなあ。 ここから自分のフィーリングだけで直してゆくのは、がむしゃらなランダムウォークになるんで 多分うまくいかない。 いっぺんレッスン受けてみるかなあ。

Tags: 表現, 芝居, 翻訳, ものつくり

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